登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
ユーリ:僕のいとこの中学生。 僕のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。 論理的な話は好きだが飽きっぽい。
ノナ:ユーリの同級生。 ベレー帽をかぶってて、丸い眼鏡を掛けていて、ひとふさだけの銀髪メッシュ。 数学は苦手だけど、興味を持ってる中学生。
ここは僕の家。今日は土曜日。
いつものように、いとこのユーリが遊びに来ている。
でも、今日はユーリの同級生、ノナも一緒だ。
僕「久しぶりだね、ノナちゃん」
ノナ「はい……こんにちは $\NONA$」
そう言って、ぴょこんとお辞儀をするノナ。
ノナは、どこかふわふわした話し方をしているから、 ちょっと幼い印象もあるけれどユーリの同級生だ。
ノナはいつもベレー帽をかぶっている。 僕はひそかに《ふわふわアーティスト》と呼んでいる。
ユーリ「あのね、ノナも《えーあい》使ってみたいんだって。お兄ちゃんのコンピュータ、貸して」
先日、ユーリは僕のコンピュータを使ってAIとチャットした(第451回参照)。
ユーリの両親はAIを使うことに反対しているので、 僕のところにやってきたのだ(第452回参照)。
まあ、そこまではわからないではない。
親に反対されたとしても、どうしてもやってみたいことは、やってみたいから。
それはいいんだけど、ノナまで僕のところに来るとは?
ノナ「お願い……お願いします $\NONA$」
僕「うん、まあ、いいよ。ちょっと待ってね。いま用意するから」
僕はAIとチャットできるウインドウを開き、 ノナにコンピュータを渡した。
ノナはAIに質問を投げかけ、AIはノナに回答する。
二人の《対話》の始まりだ——と思ったけれど、なかなか始まらないな。
ユーリが隣で操作方法を教えている。
ユーリ「そっか、ノナってタイピング遅いんだ」
ノナ「ユーちゃん、代わりに入力して $\NONA$」
ユーリ「やだよー。自分で話すからおもしろいんじゃん」
僕「だったら、音声入力モードにしてみようか。 ノナちゃんはマイクに向かって話せばいいよ。 声に出すだけで、自動的に文字に変換されるから」
僕はマイクの設定をした。
ノナはAIに質問を投げかけ、AIはノナに回答する。
二人の《対話》の始まりだ。
ノナ「このまま話していいんですか、円周率?」
AI「もちろん、 話してかまいません。 むしろ、気になることはどんどん話してみてください」
ノナ「話すと……話したこと全部伝わるの $\NONAQ$」
ユーリ「『話していいか』とか、 いちいち断らないで、 すぐ質問しちゃえばいーんだよ! 円周率が何だって?」
ノナ「円周率は $3.14$ ?」
AI「円周率( $\pi$ )は、一般的に $3.14$ と覚えられることが多いですが、 実は $3.14$ は円周率の近似値です。 円周率の正確な値は $3.1415926535\cdots$ と、 小数点以下が無限に続く無理数であり、決して割り切れることがありません。 そのため、日常の簡単な計算では $3.14$ が使われますが、 より正確な計算が必要な場面では、 さらに多くの桁数($3.14159$ など)を用いることがあります」
ノナ「たくさん……たくさん答えてきた。難しい $\NONA$」
ユーリ「AIクンには《答え方》も教えてやるんだよー」
ノナ「$\NONAQ$」
ユーリ「『もっと短く答えろ』って言っとくといーよ。それから、 『私はいたいけな中学生』って言っとくと優しくなるよー」
ノナ「短く答えて。私は中学生」
AI「円周率は $3.14$ と近似されますが、 実際は $3.141592\cdots$ と無限に続きます」
ノナ「短く……短くなった $\NONAEX$」
ユーリ「ほーらね! AIクンはちゃんと言った通りやってくれるから、 ノナが聞きたいように質問できるのさ!」
ノナ「すごい $\NONA$」
なるほど。
僕は、二人の少女の対話を興味深く聞いていた。
ユーリは先日僕が言ったことをノナに伝えている。 AIに《回答の仕方》を伝えると、AIはそれに従ってくれるという話だ(第452回参照)。
ユーリが話しているのは、いわば僕の「受け売り」ではあるんだけど、 僕が話したことが、ちゃんとユーリに伝わっていたという印でもある。
それから、もう一つ。
ノナが話しているのを実際に聞いていると、 ふわふわしていて、足下が何とも定まらない感じがする。
でも、 ノナが音声入力して、文字になった発言を読むとその印象はずいぶん変わる。 ふわふわしたところがなくなって、むしろシャープになってる。
たぶん、 話すときのスピードが文字として表現されないからだな。 それから、ノナが話している途中のもたつきも文字になると消えてしまうことも影響している。 言いよどむ部分や言葉の繰り返しも、コンピュータの音声入力で整理されてしまってシャープな印象になるんだろう。
音声で聞くのと、文字で見るのとでは、ノナはまるで別人のように感じる。
ノナとAIの対話が続く。
ノナ「どうして無限に続くの?」
AI「円周率は、円の周の長さと直径の比を表す数です。 小数で表すと $3.14159\cdots$ のように無限に続きます。 決して割り切れることがないからです」
ノナ「どうして無限に続くの?」
AI「円周率は、 無理数と呼ばれる数の仲間だからです。 無理数は、正確に整数や分数で表すことは不可能なんです」
ノナ「どうして無限に続くの?」
AI「円周率は、どのような整数や分数を使っても正確な値を表すことができない、特別な性質を持った数だからです」
ユーリ「ノナ、ノナ。おんなじ質問をただ繰り返してもダメだよー」
ノナ「だめ $\NONAQ$」
ユーリ「《聞き方》を変えないと、似たよーな答えをしてくるから。 AIクンは頭いいけど、ゆーずーは効かないのさ」
ノナ「難しい $\NONA$」
僕「ノナちゃんは円周率のどんなところを知りたいのかな?」
ノナ「$\NONA$」
僕はつい口を出してしまった。
ノナとAIのやりとりを見ていると、 もどかしさでむずむずしてきたのだ。
確かにAIの回答はそれなりに正しい。
ここまでAIの語ることは、厳密に言えば怪しいところもあるけれど、 おおむねウソは言ってない。
でも、 ノナが抱えている疑問には答えていないようだ。 納得感がないので、ノナは繰り返し同じような質問をしてしまうのだろう。
僕「ノナちゃんは、円周率が無限に続くというところに興味があるの?」
ノナは大きく頷く。
その拍子に丸眼鏡がちょっとズレて、彼女は両手で位置を直した。
ノナ「無限に続くのにあるの……円周率はあるんですか $\NONAQ$」
僕「そうだね。円周率はあるよ。 ノナちゃんが引っ掛かっているところや、 知りたいことを別の言い方で話してみたら?」
ノナはしばらく考えてから、AIに向かって話し出す。
ノナ「ノナは円を描けます」
AI「はい、ノナさんはコンパスで実際に円を描けますね。 でも数学では、 円の周の長さと直径の比を厳密に表すには、 無限に続く円周率が必要になるんです」
ノナ「円は正確じゃないの?」
AI「描ける円はあくまで近似です。 どんなにきれいに描けても、 数学的には完全な円ではなく、近い形を描いているんですよ」
そこでノナは少し考えて、AIとの対話を続けた。
ノナ「正方形なら正確に描けますか?」
AI「見た目には正確に描けるように思えますが、 実際には線の太さや角の精度に限界があるので、 厳密には完全な正方形ではありません」
ノナ「円も正方形も数学のテストに出ます」
AI「そうですね。数学では正方形を使って面積や対角線の長さなどを考えることがよくあります」
ノナ「円も正方形も正確に描けないなら、数学は正確じゃないんですか」
AI「数学そのものはとても厳密です。 でも、現実の図として描くときには近似にならざるを得ません。 物理的な制約があるからです」
そこでノナは黙った。少しして、AIとの対話を再開する。
ノナ「円周率はどうして無限に続くの?」
AI「円周率は無理数で、整数と整数の比では表せない数だからです。 円周率を小数で書き表そうとすると、無限に続くことになるんですよ」
ノナ「円周率は数学なのに正確じゃないの?」
AI「円周率を小数で書き表すことは有限の桁数ではできませんが、 円の周の長さと直径の比は厳密に定まります。 厳密に表したいときには $3.14$ ではなく $\pi$ という記号を使います」
ユーリ「ノナは何が知りたいの?」
僕「ノナちゃんは何を聞きたいの?」
ユーリと僕は思わずハモッてしまった。
ノナとAIの対話は、本当にもどかしい。
おかしなことを問うているわけじゃないし、 間違ったことを答えているわけでもない。
でも、果てしなくもどかしい。
いったい、なぜだろう。
ノナ「わからない……わかりません $\NONAX$」
ユーリと僕が畳み掛けるように言ったので、 ノナはちょっと身体を小さくした。
いけない、いけない。
彼女は彼女なりに《何か》を探ろうとしているんだ。
焦らせてもしかたがないし、声を荒げても意味はない。
僕「ノナちゃんの代わりに、僕やユーリが質問しようか?」
ノナ「大丈夫……大丈夫です $\NONA$」
僕「そう?」
ノナ「自分で……自分で話してみたい $\NONA$」
ノナはそう言って、 ベレー帽から一房だけ飛び出している銀髪に触れた。
僕「ノナちゃんとAIのやりとりを見てて思ったことを話したいんだけど」
ノナ「はい $\NONA$」
僕「AIは、質問されたことに答えようとする。 うまく質問すると、うまい回答が返ってくる」
ノナ「$\NONA$」
僕「でも、《自分の知りたいこと》を的確に《質問という言葉》に乗せることができないと、 知りたいことについての回答はAIから返ってこない」
僕がAIとのやりとりについて話し出すと、 ノナは——そしてユーリも——熱心にこちらを見つめてくる。
そうなんだよな。
ノナは、《自分の知りたいこと》をうまく言葉に乗せることはできないかもしれない。
質問の仕方だってうまくないかもしれない。
でも、彼女は《知りたい》という気持ちを強く持っている。
その気持ちを、 しっかりサポートしなくちゃいけないはずだ。
ノナ「$\NONA$」
ユーリ「……」
二人の中学生。その熱心な顔を見ながら、僕は思い出す。
そうだ。
そうだった。
僕は《先生ノナちゃん》の扉をノックする。
僕「コンコン、コンコン。《先生ノナちゃん》、いらっしゃいますか」
ノナの中には二人いるのだ。
一人は生徒役で、もう一人は先生役。《生徒ノナちゃん》と《先生ノナちゃん》と呼ばれている。
もちろんそれは、仮想的な存在だけれど、 僕たちが作った大切な共通認識なのだ(『数学ガールの秘密ノート/学ぶための対話』参照)。
そして僕はいま《先生ノナちゃん》にアクセスしているのだ。
ノナ「何でしょうか $\NONAQ$」
僕「《生徒ノナちゃん》はいまAIに円周率の質問をしています。 でも、やりとりがうまく行かないように見えます。 《生徒ノナちゃん》は、何に引っ掛かっているんだと思いますか?」
僕は《先生ノナちゃん》に質問を送り——そして待つ。
ノナの心の中で、《先生ノナちゃん》と《生徒ノナちゃん》が対話して、 その結果を持ち帰ってくるまでじっと待つ。
僕たちは人間だから、 コンピュータのように瞬間的に答えが出てくるわけじゃない。
だから、待つ。
何かを期待しながら、待つ。
しばらく経って、ノナは口を開いた。
ノナ「『自分にもわからない』って思っている……みたいです $\NONA$」
僕「そうなんだね……」
自分が自分自身の先生になって、 内なる生徒の自分に問いかける——その方法はこれまでに驚くほどの発見を導いてきた。
でも、もちろん、いつもうまく行くわけじゃない。
機械が考えているんじゃない。人間が考えているんだから。
ユーリ「AIクンに《それ》を聞いてみたら?」
僕「《それ》?」
ユーリ「自分の知りたいこと」
ノナ「やってみる $\NONAEX$」
ノナ「私は何を知りたいと思っているのかわかりません。 私はどこに引っ掛かってるのですか?」
AI「そうですね。 『円を正確に描くこと』と『円周率を正確に小数で表すこと』に関連しているところで引っ掛かっているようです。
ノナ「円が正確に描けないのはわかります。 私はどこに引っ掛かっているのですか?」
AI「ノナさんが『わかっている』と感じることと、『数学的な厳密さ』の間には、 もしかしたら少しだけギャップがあるのかもしれません。 『図として描けること』と『数学的に厳密な数値で正確に表せること』の違いが、 まだ少し曖昧に感じられているのかもしれません。 私たちは、無意識のうちに『わかっている』と思っていることと『数学での深い理解』との間にズレを感じERROR: Operation canceled 」
ユーリは、横から手を出してキーを叩きAIの回答を中断する。
画面にERROR: Operation canceled(エラー:操作がキャンセルされた)と表示された。
ノナ「ユーちゃん $\NONAQ$」
ユーリ「AIクンの回答、ときどきこうなるんだよ。 意味ありげだけど、意味がないことをだらだらと言い出すの。 それをマジメに追っかけてると、 自分が何を考えてたかわかんなくなるんだよー」
僕「それはそうなんだけど、キーボードを強く叩くなって」
ユーリ「ちょっと貸して」
ユーリはノナをコンピュータの前からどかせ、 AIに話し始めた。
ユーリ「質問者、交代。ユーリ、入ります。AIクン、何言ってるかわからない。 ノナが何を知りたいかをちゃんと考えて、短く答えて」
AI「うん、むずかしく言いすぎたね。 きれいな円は描けても、その円を数で表すのは難しいということ」
ユーリ「円を描く話はもういいって言ってたじゃん! 円周率に集中して!」
AI「じゃあ、円周率のどういうところが気になるかを教えて」
ユーリの質問、ヒートアップしているなあ。
今度はノナがユーリを押しやってマイクに話しかけた。
ノナ「円周率は $3.14$ だと正確じゃない。 円周率は $3.1415\cdots$ と無限に続く。 どうして?」
AI「円周率は無理数だから、整数と整数の比ERROR: Operation canceled 」
今度は僕が思わずキーボードを叩いてしまった。
僕「ノナちゃんがそこで『どうして?』と質問してしまうと、 AIは円周率が無限に続く理由を説明しようとしちゃう。 『どうして?』というのは理由を尋ねるときに使う言葉だから。 だから、AIはそれが質問に対する回答として理由を説明しようとする」
ノナ「$\NONA$」
僕「でも、ノナちゃんは、円周率が無限に続く理由を知りたいんだろうか?」
ノナ「$\NONAQ$」
ノナは真剣な顔で考える。
ユーリ「ノナは——」
僕「ちょっと待ってユーリ。もう少し」
ノナが沈思黙考している間に、僕も考える。
確かにノナは《自分の知りたいこと》を《質問という言葉》にうまく乗せられていない。 同じ質問を機械的に繰り返すのもそうだし、 理由が知りたいわけではないのに『どうして?』と言ってしまうのもそうだ。
しかし、AIの方も質問のさばき方がそれほどうまいわけではない。
AIはこれからさらに発展していくだろう。 質問者が自分の疑問を適切に言語化できなくても、 AIの方から質問者に適切な《問い掛け》をすることで言語化を助け、 納得へ導くことができるようになるだろうな。
ノナ「$\NONA$」
でも今は、ノナが口を開くのを静かに待つとしよう。
相手と一緒のときにできる大切なこと。
それは、相手の言葉を待つことだ。
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(2025年7月4日)