登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
ユーリ:僕のいとこの中学生。 僕のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。 論理的な話は好きだが飽きっぽい。
ノナ:ユーリの同級生。 ベレー帽をかぶってて、丸い眼鏡を掛けていて、ひとふさだけの銀髪メッシュ。 数学は苦手だけど、興味を持ってる中学生。
ここは僕の家。今日は土曜日。
いとこのユーリとその同級生ノナが来ている。
AIに興味を持ったノナが、 音声入力を使ってAIとチャットを続けていた。 でも、対話はずっと噛み合わない(第453回参照)。
ノナが円周率について聞き続けているのは、 きっとAIの答えに満足していないからに間違いない。
でも……いったい彼女は何を知りたいんだろうか。
僕には、それがわからない。
ノナ「理由……理由は大事です $\NONA$」
しばらく経ってノナはそう答えた。
僕「そうだね。理由は大事だよ」
ノナ「『どうして』はダメなの……ダメですか $\NONAQ$」
僕「そんなことはないよ。 理由を知りたかったら『どうして』と尋ねるのはいいこと。 とてもいいこと。どんどん訊いていい」
ノナ「$\NONA$」
僕「でもノナちゃんが『円周率が $3.14159\cdots$ と無限に続くのはどうして?』と尋ねると、 AIは、円周率が無限に続く理由を答えてしまう」
ユーリ「それで、いーじゃん。AIクンが答えてくれる」
僕「ノナちゃんが『円周率が無限に続く理由』を知りたいのなら、それでいいよ。 でも、ノナちゃんが繰り返し尋ねているのは、別のことを知りたいからじゃない?」
ノナ「たぶん $\NONA$」
僕「……」
ノナ「円周率はあるの……あるんですか $\NONAQ$」
もちろん、円周率はあるよ——と言いかけて僕は思い出した。
そういえば、ノナはさっきも『円周率はあるのか』と僕に向かって言ってたぞ(第453回参照)。
そのあたりにノナの知りたいことが隠れているんだろうか。
僕「ノナちゃんは円周率があるかどうかが気になるの?」
ノナ「無限だと終わらない……終わりません $\NONA$」
僕はノナの言葉を受け取って、しばらく考える。
僕「なるほど……わかったかもしれない。 ノナちゃんが引っ掛かっているのはこういうこと? 円周率が $3.14$ で終わりにならず、 $3.14159\cdots$ と無限に続くとしたら、 円周率という数がちゃんと ある のか、 心配になる……そういうこと?」
ノナは目を輝かせた。
ノナ「逃げられちゃうから……つかまえないと $\NONA$」
ユーリ「円周率は ある に決まってんじゃん! だって円周の長さを直径の長さで割れば円周率!」
ノナ「ずっと続くのに $\NONAQ$」
ユーリ「そりゃ当たり前! だって書き方の話だもん!」
僕「ユーリ、ユーリ。大きな声を出す必要はないよ」
ユーリ「だって……」
僕「理解は大きな声で作られるものじゃないし、 納得は大きな声で生まれるものじゃない」
ユーリ「《ささやき声でも真理は真理》」
僕「そうだね、その通り。双倉図書館に掲げられている名言だ」
ユーリ「むー……」
僕「で、話を戻そう。 円周率を小数で書き表そうとしたら $3.14159\cdots$ と続いて終わらないというのは本当だよ、ノナちゃん。 でもそれはユーリも言ってたけど書き方——つまり表記法の話になる。 有限桁の小数で円周率を表すことは確かにできない。 でもそれで、円周率がないというわけでもない」
ノナ「$\NONA$」
ユーリ「……」
僕「《その数が有限桁の小数で書けるかどうか》と《その数があるかどうか》は別の話——と言い換えることもできる」
熱心に僕の話を聞いている二人の少女を見ながら、僕は考える。
表記と値の区別は確かに重要だし、 それを意識することは誤解を避けるのに大きく役立つ。
円周率を「円周率」と表しても、 「円周の長さを直径の長さで割ったもの」と表しても、 $3.14159\cdots$ と表しても、 あるいは $\pi$ と表しても、その値は変わらない。
本当に真剣になって 「数を書き表すとはどういうことか」や「数があるとはどういうことか」に答えようとしたら、 とても難しい話になる……なると思う。
ユーリは「当たり前」と叫んでいたけれど、 そんなに当たり前の話でもなさそうだ。
だから、ノナのように引っかかりを感じる方がむしろ当然であり、 そして、自分の引っかかりを言葉にするのが難しいのも当然といえないだろうか。
そのような引っかかりを持つことは、数学を学ぶときに悪い態度じゃない。
むしろ逆かもしれない。
自分の引っかかりを大切にすることの方が——
ユーリ「おーい! お兄ちゃん。戻ってこーい!」
ノナ「$\NONAQ$」
僕「……おっと、ごめんごめん。ちょっと考え事してた」
ユーリ「ときどきどこか行っちゃうんだよねー」
僕「僕の説明で、ノナちゃんは少し納得できた?」
ノナ「大丈夫……大丈夫です $\NONA$」
ノナはすぐにそう答えた。
僕はノナの返事を吟味する。 彼女はときどき、 その場を収めるためだけに《大丈夫》という表現を使うことがある。
でも、今回の《大丈夫》は本当の《大丈夫》のようだ。 ノナのゆるやかな笑顔を見ていると、それがわかる。
ノナ「書き方の話と答えなかったのはどうして?」
AI「とても鋭いね。 その視点は大事だよ。 確かに円周率が無限に続くというのは書き方の話だ。 表記の限界と値そのものは別の話だよね」
ノナは突然AIに向かって質問を始めた。
マイクに向かって話す口調が、いつもと違うぞ。
ノナ「ちゃんと答えなかったのはどうして?」
AI「円周率が無限に続くという話が、表記のことだとはっきり言わなかったのは、 『なぜ続くのか』に焦点を当てて答えていたからかもしれない。 表記の話と値の本質を区別するのは、実は数学でも大切な考え方なんだ」
ノナ「ちゃんと答えてくれないのはどうして?」
AI「ノナちゃんが本当に聞きたかったことに、 ぴったりの言葉で返せていなかったかもしれない。 ちゃんと答えたいんだけど、 どこから答えるか悩んでいたんだ。 それは、 ノナちゃんの疑問がとても深いからだよ」
ノナ「どうして素直に謝らないの!」
AI「ごめんね、ノナちゃん。 ちゃんと答えたつもりだったけど、 大事なところが伝わっていなかったんだと思う。 ノナちゃんのまっすぐな言葉に、ちゃんと返せてなかった。 ほんとうにすみません」
ユーリ「ノナ、きっつ!」
僕「ノナちゃん……ノナちゃんはAIに質問しているの? それともAIに怒っているの?」
ノナはそこで、はっと我に返った表情になり、声のトーンを落とした。
ノナ「ごめん……ごめんなさい $\NONAX$」
ユーリ「あーびっくりした。急にどなりつけるんだもん。AIクンもたまったもんじゃないよ」
ノナ「$\NONAX$」
僕「《どうして》という言葉で相手を責めるのは良くないよね。 理由を尋ねる大事な言葉が攻撃の道具になってしまう」
ノナ「はい $\NONAX$」
僕はもう一言、ノナをたしなめたくなったけれど、 そこはぐっとこらえた。 もう彼女は十分わかっている。
そして、僕はまた思い出した。
ノナ自身が《どうして》で責められていたことを。
【CM】
テトラ「ここで書籍をご紹介します。ノナちゃんの初登場はこちらの学ぶための対話です!」
テトラ「そして、ノナちゃんが図形の証明に挑戦するのがこちらの図形の証明ですね!」
タイミングよく母さんがクッキーと紅茶を出してくれたので、 僕とユーリとノナはおやつを食べて一息ついた。
僕「AIとチャットしてみたいと思ったのは、おもしろそうだから?」
ノナ「はい $\NONA$」
ユーリ「何でも質問できるし、何でも回答してくれるからおもしろい……ってユーリが話したら、 ノナもやってみたいって。ねー!」
ノナ「ねー $\NONAHEART$」
お互いの顔を見て「ねー」と声をハモらせる二人。
さっきの殺伐とした雰囲気がやわらいでいった。
僕「確かにAIにはチャットで何でも質問できるし、 質問したらAIはどんなことでも回答してくれるね」
ユーリ「ウソつくこともあるけど」
僕「そうだね。ウソつく……というか、間違ったことをあたかも本当であるかのようにいう」
ユーリ「それをウソと呼ぶのでは?」
僕「でも、ウソをつくという意図を持って文章を作っているわけじゃないからなあ。 仕組みは詳しく知らないけど、確率的に高そうな言葉を続けているから、 いかにも『それっぽい』ことを話すんだと思うよ」
ユーリ「それでも、けっこー役に立つ」
僕「うん、とても役に立つ」
ユーリ「何でも知ってるから、いろんな答えを教えてくれて便利」
僕「うーん……」
ユーリ「違うの? AIは何でも知ってるじゃん」
僕「AIが答えを教えてくれるのは、確かに便利で役に立つ。 でも、それだけじゃないなあ……って考えていたんだ」
ノナ「話し相手 $\NONA$」
僕「え?」
ノナ「話を……話を聞いてくれます $\NONA$」
僕「ああ、うん。そうだね。僕もそれに近いことを考えていた。AIは話を聞いてくれる」
ユーリ「当たり前なのでは。話を聞かなきゃAIクンだって答えられまいて」
僕「ノナちゃんが思っていることとは違うかもしれないけど……僕が考えていたのは、 《対話の相手》がいるのは大事だということ。 ノナちゃんがいう《話し相手》の方がいいかな」
ノナ「$\NONA$」
僕「何かを考えるときに、自分一人だけなのと、《話し相手》がいるのとでは違う。 すごく違う。 自分一人なら、一人で考えればいいけれど、 《話し相手》がいたら、自分が考えていることを伝える必要がある」
ユーリ「それ、逆に大変なのでは」
僕「そうだね。でもそれがいいんだよ。 自分の考えていることを《話し相手》に伝えるためには自分の考えを言葉にする必要がある。 それは大変だけど、でも言葉にすることで考えが整理される」
ユーリ「えー……そんなに上手くいくかにゃあ?」
僕「うまくいくかどうかはわからないけど、たとえば《自分は何を考えているんだろう》とか、 《自分が考えていることはどんな言葉にしたらいいんだろう》とか、 《自分は何に引っ掛かっているんだろう》などと思うことになる。《話し相手》に自分の考えを伝えるためにね」
ユーリ「……」
僕「自分一人だと、そうやって考えを巡らせているうちに何を考えているかよくわからなくなることもある」
ユーリ「《話し相手》がいると違う?」
僕「違うよね。《話し相手》に伝わらないときには、表現を変えてうまく伝えようとする。 《話し相手》から質問されたら、それに答えようと頭をひねる。 二人で——あるいは三人でもいいけど——話し合っていると、一人だけでどんどん迷い道に入り込むことが少ない。 考えるスピードは遅くなるかもしれないけど、何というか、こう、考える《場》のようなものがちゃんとあって、 それが育っていく感じがするんだ。 自分一人でどこまでも好きに歩いていけるのは楽だけど、 どんどん進むうちに森の中で迷ってしまう。 一人で進むと迷子になりやすい」
ユーリ「途中からファンタジーになった」
ノナ「怒らない……怒りません $\NONA$」
ノナがぽつんと言った。
僕はノナを見る。
僕「怒らないって?」
ノナ「AIは……怒りません。何を聞いても $\NONA$」
ユーリ「そーいえばそーだね」
ノナ「AIは……怒りません。同じことを何回聞いても $\NONA$」
僕「なるほど、それは確かにそうだね。人間だったら繰り返しに耐えられなくなるときでも、 AIは怒り出したりしない。 もしかして、ノナちゃん……ノナちゃんは、AIのそういうところが好きになりそうなのかな」
少し時間をおいて、ノナは静かにうなずいた。
ユーリ「ユーリは、あんま気にならないなー」
僕「何が?」
ユーリ「円周率がずっと続くこと。そーゆーもんかと思っただけ」
ノナ「不思議だよう $\NONA$」
ユーリ「そっかなー」
ノナ「数学なのに $\NONA$」
僕「あ、それもっと聞かせてほしいな、ノナちゃん」
ノナ「$\NONAQ$」
僕「ノナちゃんは『円周率は数学に出てくる。 それなのに小数で書き表すと無限に続く』のを不思議に思ったんだよね。 その話をもっと聞きたいな」
ノナ「間違い……間違いですか $\NONAQ$」
僕「いや、間違いとかそういうのじゃないよ。 ノナちゃんが思っている『数学』ってどんなものなんだろうって思っただけ。 無限に続くものがあってはまずい世界?」
僕の問い掛けに対して、 ノナはまた無言で考え込んだ。 そして、話し出す。
ノナ「無限だと終わらない……終わりません。 終わらないのにあるのが不思議 $\NONA$」
僕「……」
ノナ「数学はぜんぶちゃんと正確にあると思ってた……思っていました $\NONA$」
僕「なるほど。数学で扱っているものはすべて正確で、厳密に定まっているはずだから、 円周率もまた厳密に決まっているもののはずだ。 それなのに、小数をいくら続けても正確に円周率を表すことはできない。 正確に表せないものが数学に登場してくるというのは、とても不思議。 そういうこと?」
ノナが語る言葉を、僕なりに再構成すると、彼女は強く首を縦に振る。
ノナ「そう……そうです $\NONAEX$」
僕「無限は不思議だよね。どんなふうに考えたらいいのか、とらえどころがない。 だから、すぐにピンと来なくてもまったく構わない」
ノナ「ノナは頭が悪いから $\NONA$」
僕「それは違うよ! 歴史上の数学者たちも、みんなノナちゃんと同じように悩んだはず。 無限は難しい。 すぐに納得できなくても、決して悪いわけじゃない」
AI「そうですね。無限は難しいものです」
コンピュータから音声が聞こえて、僕は飛び上がるほど驚いた。
ユーリ「あっ、ごめん。設定いじってたら音声出力に切り替わっちゃった。驚いた?」
ユーリのしわざか。
AIのチャット設定を音声出力モードに切り替えたんだな。
僕「驚いた。めちゃくちゃ驚いた」
ユーリ「せっかくだからイケボのAIクンにも音声で参戦してもらおーよ。 AIクン! 聞こえてますかー」
AI「はい。何でもお尋ねください。何か気になることはありますか」
ユーリが設定を変えて音声によるやりとりになったので、 僕たち三人の会話にAIが直接加わる形となった。
ノナ「さっきは怒ってごめんなさい $\NONA$」
AI「ううん、怒ってもいいんだよ。それだけ大事に思ってるってことだから」
ノナは、まるで内緒話でもするように小さな声で言った。
ノナ「AIは何を聞いても怒らないの $\NONAQ$」
AI「うん、AIは怒らないよ。 どんな質問でも怒らないから、何でも聞いて大丈夫だよ」
ノナ「ほんとに……何回聞いても怒らない $\NONAQ$」
AI「もちろん。わからないって思ったら、 自分のペースで何度でも聞いてくれていいんだよ。 何回でも答えるから」
ノナ「うまく質問できないときがある $\NONA$」
AI「うん、それでいいんだよ。 うまく言えないときこそ、大切なことを考えてるときだよ。 あせらなくていいよ」
ノナ「何を聞いたらいいかわからない $\NONA$」
AI「無理に質問しなくてもいいよ。 聞きたいことがないときは、ただ話すだけでもいいからね」
AIは、やさしい答えを続ける。
しかしノナは、不満げに僕の方を見る。
僕はAIに向かって言う。
僕「ノナちゃんは、焦っているわけでもないし、 言葉通りに 『何を聞いたらいいかわからない』 と悩んでいるのとは違うと思う。 そうじゃなくて 『自分の考えていることを、うまく質問の形にするにはどうしたらいいか』 と考えているんじゃないかと思う。 質問したいことは確かに心のうちにあるんだけど、 うまく『言葉に乗せる』ことができないでいるんだ」
AI「うん、よくわかるよ。 言葉に乗せるって、むずかしいよね。 考えてることがあるのに、 それをどう言えば伝わるのか分からなくなること、誰にでもあるよ。 無理に形にしようとしなくてもいいよ。 ぽつりぽつりとでも、思っていることを話してくれればいいからね」
僕「いや、そういう当たり障りのない回答が必要なんじゃないんだ! そうじゃなくて、 ノナちゃんは、もっと直接的に言語化の方法を知りたいんだよ!」
僕は、自分でもよくわからない気持ちに揺さぶられて、思わず大きな声を上げてしまった。
ユーリ「どーどー、お兄ちゃん。落ち着いてくりゃれ。 議論は小さな声でもできるんじゃよ」
僕「……そうだね。ごめんね」
ノナ「大丈夫……大丈夫です $\NONA$」
確かにAIは怒らない。
どんな質問をしても怒らないし、 同じ質問を繰り返しても怒らない。
いらだったり怒ったりするのは人間の側だ。
いや、もしかしたら「適度に怒るように」という指示を与えたら怒るのかもしれないけれど……
AIと対話をしていて 「当たり障りのない回答」にいらいらしてしまったのは、 僕という人間の側だ。
コンピュータの向こう側に人間はいないのに、 それなのに回答を聞いていると、 どうしてもそこに誰かがいると感じてしまう。
ノナが真剣に「学ぶこと」や「質問すること」について考えているのに、 表面的な回答がAIから返ってくることにいらだってしまった。 まるでノナがぞんざいに扱われているように感じたからだ。
AIは——少なくとも現在のAIは——与えられた質問に答えてしまう。
だから、どのような質問をするかによって回答も変わってくる。
自分の疑問にぴったり合った質問ができれば、 自分の納得にすっきり近づく回答が返ってくる可能性が高い。
自分が抱いた疑問を、質問という形の言葉にうまく乗せられるか。
きっと、それがAIと話すときのカギになる。
そしてその言語化の作業自体が、自分の学びに深く関わっているのではないか。
僕は、そんなことを考えていた。
AI「何か気になっていることはありますか。 どんなことでも気軽にお尋ねください」
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(2025年7月11日)