登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
テトラちゃん:僕の後輩。 好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。言葉が大好き。
僕とテトラちゃんは、村木先生の《カード》に書かれていたベクトル空間の定義に取り組んでいる。
いや、ベクトル空間の定義というよりは数学の説明文の読み方に取り組んでいるといった方が正確かもしれない。
いまはちょうど、《である例》と《ではない例》を作って、写像についての理解を確かめ終えたところだ(第387回参照)。
僕「じゃあ、写像の定義を確認したところで、村木先生の《カード》に戻ろうか」
テトラ「そうですね。あたしたちの《二人三脚読み》は、 『写像』が出てきたところで深みに入ったんでしたね」
僕とテトラちゃんは、改めて《カード》を読み返す。
村木先生の《カード》
(1)$K$ の任意の元 $a$ と、 $V$ の任意の元 $x,y$ に対して、$$a(x + y) = ax + ay$$が成り立つ。
(2)$K$ の任意の元 $a,b$ と、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$(a + b)x = ax + bx$$が成り立つ。
(3)$K$ の任意の元 $a,b$ と、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$(ab)x = a(bx)$$が成り立つ。
(4)$K$ の単位元を $1$ とすると、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$1x = x$$が成り立つ。
※松坂和夫『代数系入門』を参考にしています。
僕「写像の定義を確認したときには『集合 $X$ から集合 $Y$ への写像』について考えていたけれど、 《カード》の記述は違うよね」
テトラ「はい。 『$K\times V$ から $V$ への写像 $(a,x) \mapsto ax$ が存在して……』となっています」
僕「うん、これを読み解くと——」
テトラ「ああっと、先輩! あたしが読まないと、あたしの練習になりませんっ!」
僕「おっとっと。そうだったね。ごめんごめん」
テトラ「『$K\times V$ から $V$ への写像』と書かれています。あたしはこれを読み解くことができます。 一つ一つをこれまでていねいに確かめてきましたから」
僕「いいね! それでいいと思うよ」
テトラ「先輩っ! あたし、気付いたことがあります」
僕「?」
テトラ「あのですね。もしもあたしがいきなり『集合 $K$ の要素と集合 $V$ の要素の組に対して、集合 $V$ の要素が一つ決まるような対応』という説明を誰かから聞いたとしたら、きっと何もわからないと思います」
僕「へえ……」
テトラ「その一言の中に、あまりにもたくさんのことが詰まっているからです。 初めて聞いて一回でさっとわかるようなものじゃあないんですね」
僕「うん、それはそうだね。確かに」
テトラ「一つ一つのこと……つまり『集合 $K$ の要素』とか、『集合 $V$ の要素』とか、『二つの要素の組』とかが具体的にイメージできていないと、 『集合 $K$ の要素と集合 $V$ の要素の組に対して、集合 $V$ の要素が一つ決まるような対応』といわれても困ってしまいます」
僕「その通りだね。どうしても『慣れ』が大事になる」
テトラ「はい……いいえ。ただの『慣れ』では駄目じゃないかとあたしは思います」
僕「おや?」
テトラ「う、うまく説明できませんけれど、ただの『慣れ』では駄目じゃないでしょうか。 たとえば先ほどの『集合 $K$ の要素と集合 $V$ の要素の組に対して、集合 $V$ の要素が一つ決まるような対応』みたいな表現があったとします。 一つ一つの単語や文字や用語の意味をしっかりと確かめないで、全体をぼんやりと聞いているだけじゃ駄目ですよね?」
僕「ああ、そういう意味か……うん、確かにそうかもしれない。 いま、テトラちゃんは『慣れ』という言葉の意味を明確にしようとしたんだね」
テトラ「あ、はい、そうです。 『慣れが大事』といわれると『細かい理屈はわからなくても、とにかく何度も繰り返すことが大事』という意味にもとれてしまいます。 でも、たとえば『写像』という言葉の定義は、 誰かに聞いたり、教科書や数学辞典などで調べないことにはわかりませんよね」
僕「そうだねえ……」
テトラ「《カード》を読むと 『$K\times V$ から $V$ への写像 $(a,x) \mapsto ax$ が存在して……』と書かれています。 ここで、$$(a,x) \mapsto ax$$が出てきました。 この部分も、あたしは読み解くことができますっ! こういうことですよね?」
僕「そうだね! いまのテトラちゃんの説明は正しいと思うよ。でも一つ気になることがあった」
テトラ「何か間違っていました?」
僕「間違いというほどじゃないんだけど、テトラちゃんは $(a,x) \mapsto ax$ に出てきた $ax$ を『$a$ と $x$ の積』といったけど、 その呼び方はちょっと引っかかるかも」
テトラ「えっ?」
僕「そう呼んでも悪くはないかもしれないけど、いちおうこの《カード》の説明では $ax$ のことを『$x$ の $a$ 倍』と表現しているね」
テトラ「……あ、確かにそうですね。あたしはあまり考えずに、 $ax$ は $a$ と $x$ の掛け算の意味なので $ax$ を『$a$ と $x$ の積』と呼んだんです」
僕「うん。たとえば $a$ と $x$ がどちらも数だったら、 $ax$ は積と呼んでもいいんだけどね」
テトラ「え?」
僕「$a$ は $K$ の要素で、 $x$ は $V$ の要素だから、 $ax$ は異なる集合の要素を二つ並べて表記しているだけだ——というのは意識した方がいいと思ったんだよ」
テトラ「ちょ、ちょっとお待ちください……ああ、確かにそうですね。 $a$ は $K$ の要素で、 $x$ は $V$ の要素ですよね。それぞれ異なる集合の要素です。確かに」
僕「うん、だからたとえば仮に $V$ の要素は太字で書くことにすれば、$$(a,x) \mapsto ax$$は、$$(a,\boldsymbol{x}) \mapsto a\boldsymbol{x}$$と表記できる」
テトラ「はい、そうですね」
僕「テトラちゃんはいま数学の説明文を読み解く練習をしているわけだから、 細かい話かも知れないけど、ツッコミをいれちゃったよ」
テトラ「いえ、ご指摘くださった方がありがたいです。実際、あたし、意識していませんでしたし……。 $ax$ をふつうに数の掛け算のつもりで読んでいたんです。 不思議ですね。ちゃんと一歩一歩読んでいるつもりで、 しかも直前に $a$ は $K$ の要素で、 $x$ は $V$ の要素だと自分で言っておきながら、 $$(a,x) \mapsto ax$$の $ax$ を見た瞬間にそれが頭からポーンと抜けちゃうんですから……」
僕「いやいや、そういうことはよくあるよ」
テトラ「でも $ax$ が積じゃないとすると、 $(a,x) \mapsto ax$ がいったいどんな写像なのかわかりませんよね。 だって、 $ax$ が何なのかわからないんですから!」
僕「《カード》の先読みをしちゃうと、 $ax$ のことは『$x$ の $a$ 倍』で、 $(a,x)$ から $ax$ を得る写像のことは『スカラー倍』と呼んでるね」
テトラ「いえ、名前のことではなくて……その $ax$ というのは、いったい何なんでしょう?」
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