この記事は『数学ガールの秘密ノート/ベクトルの真実』として書籍化されています。
ユーリ「お兄ちゃん、止まってるのに加速度が $0$ じゃないってこと、ある?」
僕「なんだよ出し抜けに」
ユーリ「ねー教えてよ」
僕「止まってるのに加速度が $0$ じゃないって……?」
従妹のユーリは中学生。 彼女はいつも僕の部屋にやってきてはクイズを出したり質問したり、単におしゃべりをしたり……。
ユーリ「何その『単におしゃべりしたり』って」
僕「地の文に突っ込むな」
ユーリ「ねー教えてよ。止まってるのに加速度が $0$ じゃないことって……」
僕「ふむ。質点が静止しているけれど加速度が $0$ じゃないということはありうるよ。 ただし瞬間的な話だけどね」
ユーリ「瞬間的?」
僕「たとえば、ボールを真っ直ぐ上に投げ上げる。 ボールはずっと上がっていくけど、だんだんスピードが落ちてくる。 そして上がりきったところで一瞬だけ止まる。 そして次の瞬間から落ち始める」
ユーリ「ふんふん」
僕「でも、このボールの加速度はいつも一定だよ。 地球から働く重力が一定だからね。 ほらこのあいだ話しただろ。加速度を生じさせるのが力だって話(第47回参照)」
ユーリ「うん」
僕「地球からボールに働く重力が一定だから、加速度も一定。重力加速度 $g$ だ。もちろん $g$ は $0$ じゃない」
ユーリ「うん、それはいーんだけど……」
僕「だから、加速度が $0$ じゃないとしても、一瞬だけ静止する場合はある」
ユーリ「うーん……」
僕「でもずっと静止していたら---つまり止まったままなら速度の大きさは $0$ だね。 速度が $0$ のまま変化しない。 速度が変化しないんだから加速度も $0$ だよ」
ユーリ「でもそれだとおかしくない?」
僕「いったい、ユーリはどんなことを考えてるの?」
ユーリ「あのね、地面に人間が立っているのを考えたの」
僕「ほう」
ユーリ「お兄ちゃんが加速度と力の話をしてくれたとき、 《加速度は位置の微分の微分》とか、《加速度を生み出すのが力》とか話してたけど……」
僕「うん、そうだね。よく覚えてるな」
ユーリ「この立っている人には重力かかっているじゃん? 重力って力だよね」
僕「もちろん」
ユーリ「でも、この立ってる人、止まってるじゃん? 瞬間的じゃなくて、ずっと止まってたら位置の変化も速度の変化もないし、 加速度は $0$ だよね」
僕「ははあ……そういう疑問か」
ユーリ「力がかかってるのに加速度 $0$ ってゆーのは、だからおかしい! ……って思ったの」
僕「なるほど。それはすばらしい疑問だなあ。ユーリは賢いね」
ユーリ「いやいやいやいや……そーゆーホメ言葉はもっと言って」
僕「がく。……だから止まっているのに加速度が $0$ じゃないことがあるかってクイズを出したんだね」
ユーリ「うん。クイズじゃなくて質問だけど」
僕「答えからいうとね、こんな風に立っている人の加速度は $0$ だよ。それからこの立っている人に重力が働いているというのも正しい」
ユーリ「え! それじゃどうして……」
僕「でも、この立っている人に働いている力は重力だけじゃないんだよ」
ユーリ「へー! 重力以外の力がかかってんの? 磁力とか?」
僕「いや、この人は磁石じゃないから、磁力は働いてない。静電気力も働いてない」
ユーリ「じゃ、どんな力?」
僕「地面がこの人を押し返す力が働いているんだよ」
ユーリ「地面?」
僕「そう。地面がこの人を押し返さなかったら、この人はずぶずぶっと地面にもぐってしまう。 その場合には下方向に加速度が生じる。 地面にもぐっていかないのは、ちょうど重力に釣り合うだけの押し返す力が働いているからなんだよ」
ユーリ「ふーん……なんかうまくごまかされたみたいな」
僕「わかった。じゃあ、力のことをもう少しきちんと話してみよう」
ユーリ「うん!」
僕「いまから話すのは、高校で習う物理学……そのうちの力学という分野の基本的なところだよ」
ユーリ「難しい?」
僕「いや、難しくはない。話を単純化するために、 いまは人を質点(しつてん)として考える。つまり質量のある点だね。 一点として考えると、人がくるくる回る回転を考えなくて済むから」
ユーリ「ふーん」
僕「それでね、力学で大事なのは注目している質点に働いている力をすべて見つけることなんだ」
ユーリ「力を……すべて見つける」
僕「そう。ユーリはさっき《重力が働いているのに加速度が $0$ なのはおかしい》っていったけど、 それは、ユーリが見逃した力があるってことなんだね」
ユーリ「ほほー」
僕「力をすべて見つけることができたら、力学の問題は解ける。 それがニュートンの運動方程式のすごいところなんだけど、まずは注意深く力を探すことが大事になるんだ」
ユーリ「ふんふん」
僕「それからね、力を探すときには何から何に対して働いている力か?に注意することが大事」
ユーリ「え、お兄ちゃん、なんか当たり前のこと言ってる?」
僕「うん。当たり前のことを言ってる。でも、これが意外に難しいんだ。 ふだんはそんなに厳密に力のことを考えないからね。 何から何に対して働いている力か、なんて」
ユーリ「話がわかんなくなってきた。ユーリの《立ってる人》で説明してよ。まず重力はいいんでしょ?」
僕「うん。いまユーリは人の右側に下矢印を描いたけど、こういう描き方はあまり良くない」
ユーリ「え、また細かい話?」
僕「いやいや、大事な話。 いま、お兄ちゃん言ったばかりだろ。何から何に対して働いている力か?が大事だって。 だから、こんなふうに描いた方がいい。 こうすれば、重力が人に対して働いている力だということがよくわかる」
ユーリ「おっ、なーるほど」
僕「いま描いた重力は、地球から人に対して働いている力だ」
ユーリ「ははーん。《何から何に対して》をはっきりさせるってそういう意味なんだね」
僕「そうだね。そして、さっきお兄ちゃんが言った、地面が人を押し返す力がある。描いてみよう」
ユーリ「……ねえ、お兄ちゃん。この力はどっから来たの?」
僕「この力は地面からだね。まあ地球といってもいいけど。これは重力じゃない」
ユーリ「じゃあ、何の力?」
僕「これは反作用の力というね。 人が地面を押す力を作用の力というなら、 地面が人を押し返す力は反作用の力になる」
ユーリ「反作用……聞いたことある。作用・反作用って習ったよ。押したら押し返す。やられたらやりかえす。倍返し」
僕「時事ネタ禁止。もっとも作用と反作用という呼び方は相対的なものだから、どちらが作用と決まってるわけじゃない。 片方を作用の力と呼んだら、別の方を反作用の力と呼ぶことになるんだよ」
ユーリ「そっかー。作用・反作用って力の話だったんだ!」
僕「何の話だと思ってたんだ?」
ユーリ「いや、先生の話あんまし聞いてなかった。 だって、押したら押し返されますって、当たり前すぎて何がなにやら」
僕「ああ、そういうところはあるねえ。 作用・反作用の法則はぼんやり聞いていると何だか当たり前みたいだ。 でも大事なのは《何に対する力》なのかを注意深く考えることだよ」
作用・反作用の法則
質点Aが質点Bに対して力を及ぼすとき、 質点Bは質点Aに対して大きさが等しくて向きが逆の力を及ぼす。
ユーリ「?」
僕「質点Aと質点Bだと抽象的でわかりにくいから、さっきのユーリの立っている人の話をしよう。 地球から、立っている人に重力が働く(1)。そうすると、人は足を踏ん張って地球に対して力を掛けることになる(2)。 足を踏ん張る力の大きさと向きは、地球が人に対して掛けた重力と同じだから、(1)と(2)は大きさも向きも同じだ。 そして、人が地球に対して力(2)を及ぼすことで、地球は人に対して押し返す力を及ぼす(3)。 (2)を作用の力と呼ぶなら、(3)は反作用の力になる。 (2)と(3)は大きさは同じで向きは逆だね。 だから結局、(3)は重力(1)と同じ大きさで向きが逆の力だということになる」
ユーリ「……」
僕「この(1)と(3)で、立っている人に働く力はすべてだ。つまり《地球からの重力(1)》と《地球からの押し返す力(3)》の二つのことだよ。 この二つの力は、大きさが同じで向きが逆になる。二つの力を合わせると打ち消しあって力は $0$ になる。 力が $0$ になったから加速度は $0$ だ。したがって、この立っている人は静止し続けることになる。わかった?」
ユーリ「わかんない」
僕「がく。え、わかんない? どこがわかんなかった?」
ユーリ「お兄ちゃんが言った二つの力が打ち消し合って……というところはいーんだけど。 その前がわかんなかった」
僕「その前って何だろう」
ユーリ「あのね。お兄ちゃん、説明しているとき二つの力じゃなくて、三つの力の話をしたじゃん」
僕「そうだね」
ユーリ「この二番目の、足を踏ん張った力はどこに行ったの? 何か都合がいい力だけ引っ張ってきたみたいで、 この足を踏ん張る力をスルーしてたからわかんなくなった」
僕「なるほど! これは重要なところだよ。ねえユーリ、この足を踏ん張る力(2)っていうのは、 《何が》《何に対して》働いている力だと思う?」
ユーリ「えっと……《人が》《地球に対して》かにゃ?」
僕「その通り! お兄ちゃんが足を踏ん張る力を無視したのは、この力は地球に対して働いている力だからなんだ。 いまは人に対して働いている力をすべて見つけようとしていた。 人に対して働いている力は、重力(1)と、地球が押し返す力(3)の二つだけ。 足を踏ん張る力(2)は地球に対しての力だから関係がない」
ユーリ「あ、そっか!」
僕「そうなんだよ、ユーリ。 力をすべて見つけ出す。そのときに、何が何に対して働いている力なのかに十分注意する。 その二つが力学ではとても大事なんだ」
ユーリ「わかったよ。お兄ちゃん!……あ、でももう一つだけ」
僕「なに?」
ユーリ「さっきお兄ちゃん、加速度 $0$ になる理由をまとめてくれたじゃん? あれ、何だか変だった」
僕「え、そうかな。立っている人に働く力はぜんぶ見つかったよね。 地球からの重力と、地球からの押し返す力。この二つの力だよ」
ユーリ「うん、それは納得」
僕「この二つの力は、大きさが同じで向きが逆になる。二つの力を合わせると打ち消しあって力は $0$ になる」
ユーリ「うん、それも納得」
僕「力が $0$ になったから加速度は $0$ だ。したがってこの立っている人は静止し続けることになる」
ユーリ「そこ! 何か変な感じがしたの!」
僕「そう?」
ユーリ「《力が $0$ だから加速度が $0$》はいいんだけど、 加速度が $0$ っていうのは速度が変化しないってことでしょ? 速度が変化しないっていうのは、静止し続けるってことなの?」
僕「お! ユーリ! ユーリはほんとに賢いなあ! それは鋭い指摘だよ」
ユーリ「ホメ言葉は後にして話を進めてよ」
僕「うん。ユーリのいうとおりだ。加速度が $0$ というのは速度が変化しないということ。 速度が変化しないといっても静止し続けるとは限らない。速度が一定のまま、つまり速度の大きさも向きも変えずに 動き続けていても構わない。すなわち等速直線運動をしててもいい」
ユーリ「とーそくちょくせんうんどー?」
僕「そうだよ。こんな様子を考えればいい。つるつる滑るスケートリンクの上に立っている人だ。 この人に働く力は重力とスケートリンクが押し返す力の二つ。これが釣り合っているから打ち消しあって力は $0$ になる。 加速度は $0$ だ。でも、この人はもしかすると静止していないかもしれない」
ユーリ「あははははっ! 本人はじっと止まったつもりでも、つつつつーと横に滑ってるかもしれないんだね!」
僕「その通り! 力が $0$ で加速度が $0$ だとしても、等速直線運動、つまり等しい速度で直線上を運動しているかもしれない」
ユーリ「あー、想像したら笑っちゃった。まじめな顔したお兄ちゃんがカチンと固まったまま横に滑ってくの。ギャグだよね」
僕「僕がモデルか!」
ユーリ「あー、大笑いした」
僕「涙流してまで笑うなよ」
ユーリ「ほんで、もう一つ質問思いついちゃった」
僕「何?」
ユーリ「人って二本足じゃん? 地球を押す力っていっても足で押すわけだよね。足が二本あっても力が二倍になったりしないの?」
僕「なるほど。それはね……」
ユーリ「あー、何回思い出しても笑うよね。カチンと固まったお兄ちゃんがツーっと滑って……ぷふっ」
僕「思い出し笑いするなよ」
ユーリ「ところで《倍返し》って、 $2$ 倍にして返すって意味なの?」
僕「知らないよ」
ユーリ「だとしたら、作用・反作用って《倍返し》じゃないよね。むしろ《等価交換》?」
僕「向きは逆だけどね」
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(2013年11月1日)
この記事は『数学ガールの秘密ノート/ベクトルの真実』として書籍化されています。
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