オフシーズンのお知らせ
結城浩です。いつもご愛読ありがとうございます。
おかげさまでこのWeb連載も今回で第470回を迎えました! みなさまの応援に感謝します!
さて、たいへん恐れ入りますが、 次のシーズン準備のため、下記の通り更新をお休みいたします。
| 日程 | 内容 |
|---|---|
| 2026年4月24日(金) | 第470回更新 |
| 2026年5月1日〜2026年6月19日 | オフシーズンのため更新はありません |
| 2026年6月26日(金) | 第471回更新(以降、毎週金曜日更新) |
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登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
テトラちゃん:僕の後輩。 好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。言葉が大好き。
ミルカさん:数学が好きな高校生。 僕のクラスメート。メタルフレームの眼鏡に長い黒髪の《饒舌才媛》。
僕とテトラちゃんはミルカさんによる圏の説明を聞いていた(第469回参照)。
ミルカ「ここまでで、 圏、対象、射、 射の始域と終域、 合成射と恒等射を説明した」
テトラ「はい。大小関係の圏 $\CatA$ という例のおかげで、少しイメージがわかってきました」
ミルカ「では次に進む前にいったんまとめておこう」
圏の定義1(対象)
対象の表記
圏の定義2(射)
射の表記
圏の定義3(射の始域と終域)
圏の定義4(合成射)
任意の射 $f\in\HomC{a}{b}$ と任意の射 $g\in\HomC{b}{c}$ に対して、 $f$ と $g$ の合成射と呼ばれる射が $\HomC{a}{c}$ に定まる。それを $g\COM f$ と表記する。

ここで $\COM$ は二つの射の組から一つの射を得る二項演算で、 結合律を満たす。つまり任意の射 $f,g,h$ に対して、 $$ h\COM(g\COM f) = (h\COM g)\COM f $$ が成り立つ。
圏の定義5(恒等射)
$a$ が圏 $\CatC$ の対象であるとき、 $a$ の恒等射と呼ばれる射が $\HomC{a}{a}$ に定まる。それを $\ID{a}$ と表記する。

$a$ の恒等射は次の性質を持つ。


テトラ「はい、大丈夫です……なんとか」
ミルカ「ではクイズ……いや、問題を出そう。 $\ID{a}$ という表記の妥当性についてだ」
テトラ「$\ID{a}$ は $a$ から $a$ への恒等射を表すもの……ですよね? 表記の妥当性といいますと?」
僕「一意性の問題?」
ミルカ「そうだ」
問題1(恒等射の一意性)
$a$ は圏 $\CatC$ の対象とする。
このとき、 $a$ の恒等射は一意に定まるか。
すなわち、 $a$ の恒等射は $a$ に対してたった一つしか存在しないといえるか。

テトラ「いえる……と思います」
ミルカ「答えとしてはそれでいい。 $a$ の恒等射は $a$ に対してたった一つしか存在しない。 だからこそ、 $\ID{a}$ という表記がゆるされるわけだ」
テトラ「?」
僕「もしも $a$ に対して二つの異なる恒等射 $i_1$ と $i_2$ が存在したら、 $\ID{a} = i_1$ なのか $\ID{a} = i_2$ なのかわからなくなるからだね。 $\ID{a}$ と表記するからには $a$ に対してたった一つの射が決まらないと困るっていうこと」
テトラ「ははあ……」
ミルカ「いまの彼の説明がそのまま証明の第一歩になる。 つまり、 二つの射 $i_1$ と $i_2$ がどちらも $a$ の恒等射だとしたら、 $i_1 = i_2$ が成り立つことを証明すればいい」
解答1(恒等射の一意性)
$a$ が圏 $\CatC$ の対象であるとき、 $a$ の恒等射は一意に定まる。
証明
$i_1$ と $i_2$ がどちらも $a$ の恒等射であるとする。
まず、 $i_1$ は恒等射だから、恒等射の定義より射 $\MARKA{i_2}$ に対して $$ i_1 \circ \MARKA{i_2} = \MARKA{i_2} $$ が成り立つ。
また、 $i_2$ は恒等射だから、恒等射の定義より射 $\MARKB{i_1}$ に対して $$ \MARKB{i_1} \circ i_2 = \MARKB{i_1} $$ が成り立つ。
よって、 $$ \MARKB{i_1} = \MARKB{i_1} \circ i_2 = i_1 \circ i_2 = i_1 \circ \MARKA{i_2} = \MARKA{i_2} $$ より、 $$ i_1 = i_2 $$ である。
したがって $a$ の恒等射は一意に定まる。
僕「うんうん。 一意性を確かめるときは、 《二つあったとすると、その二つは等しい》 を示すのは基本だね」
ミルカ「この証明、テトラは読み解けた?」
テトラ「……はい。 $$ i_1\circ i_2 $$ を二通りに読み替えているんですね。 $i_1$ と $i_2$ のどちらを恒等射として考えるか。恒等射としての役割を交換しています」
僕「そうだね。 これと似た証明は、恒等写像の一意性でもやったことがある」
テトラ「恒等写像?」
僕「集合 $X$ 上の恒等写像 $\Ident$ というのは、 任意の $x\in X$ に対して、 $$ \Ident(x) = x $$ が成り立つ $X$ から $X$ への写像のこと。 恒等写像の一意性も同じだよ。 《二つあったとすると、その二つは等しい》 という証明だね」
恒等写像の一意性の証明
$\Ident_1$ と $\Ident_2$ がどちらも集合 $X$ 上の恒等写像だとすると、 $X$ に属する任意の要素 $x$ に対して、 $$ \Ident_1(x) = x = \Ident_2(x) $$ が成り立つ。 集合 $X$ の任意の要素に対して $$ \Ident_1(x) = \Ident_2(x) $$ が成り立つことから、 $$ \Ident_1 = \Ident_2 $$ がいえる。 よって、集合 $X$ 上の恒等写像は $X$ に対して一意に定まる。
テトラ「ははあ、なるほど。 $\Ident_1$ と $\Ident_2$ を出してきて、 $\Ident_1 = \Ident_2$ を導く。確かに同じですね」
ミルカ「確かに《二つあったとすると、その二つは等しい》という方法という意味では同じだが……」
僕「同じだが……何?」
ミルカ「圏論の視点に立った別証明も楽しい」
僕「圏論の視点?」
ミルカ「『ベーシック圏論』の著者レンスターは序論の冒頭で
《圏論は鳥の目で数学を俯瞰する》
と述べている。鳥の目で俯瞰するのが圏論の視点だ」
僕「よくわからないなあ……」
ミルカ「その話の前に、大小関係の圏(第469回参照)とは別の圏について話そう」
テトラ「鳥の目で数学を俯瞰する……?」
ミルカ「これから、一つの圏を作っていこう。 名前は $\CatN$ とする」
僕「いいよ」
テトラちゃんがすかさず手を挙げる。
ミルカ「はい、テトラ?」
テトラ「その $\CatN$ という圏の対象は何ですか?」
そうだった、と僕は思った。
圏は対象の集まりを持っている。 だから、圏の話を聞いたときにはまず《その圏の対象は何か》を確かめる必要がある。
テトラちゃんはちゃんと基本に忠実なアクションを取ってるんだなあ……(第469回参照)。
ミルカ「それは正当な質問だ。 圏 $\CatN$ の対象はたった一つしかない。 そしてその対象が何であるかは問わない。 何であっても構わない」
テトラ「たった一つ?」
僕「何であっても構わない?」
ミルカ「その対象自身が何か特別な性質を持つ必要はないということ。 単に圏 $\CatN$ の射に対して始域と終域になるだけだ。 数学ではこういうとき唯一の対象として $\ast$ や $\bullet$ を使ったりする」
テトラ「何でもいいなら……たとえば $\CN$ でもいいんですか?」
ミルカ「もちろん、構わない。ではそれを採用しよう。 圏 $\CatN$ の対象は $\CN$ と表記する唯一のものだ」
僕「圏 $\CatN$ の射は?」
ミルカ「$0$ 以上の整数全体の集合をいま $N$ とする。 つまり、 $$ N = \SET{0, 1, 2, 3, \ldots} $$ ということ。 $N$ は集合の名前で、 $\CatN$ は圏の名前だ。 そして、圏 $\CatN$ の射は $n\in N$ に対応させて $f_n$ という名前にしよう。 すなわち $\CatN$ の射は、 $$ f_0, f_1, f_2, f_3, \ldots $$ というもの。そして射の合成 $\circ$ は、 $$ f_n\circ f_m = f_{m+n} $$ によって定義する。 これが結合律を満たすことは $N$ 上の $+$ が結合律を満たすことからいえる。 なお、合成の定義では、 $f_m$ が先であることに注意。 $$ \FromArrowViaArrowTo{\CN}{f_m}{\CN}{f_n}{\CN} $$ もっとも、 $m+n = n+m$ だから 圏 $\CatN$ で射の合成 $\circ$ は可換になるが。 さあ、これで圏 $\CatN$ が定義できた」
圏 $\CatN$

僕「うーん……」
テトラ「……難しいです」
ミルカ「何が難しい?」
テトラ「一つ一つは難しくありません。 $N$ は $0$ 以上の整数全体の集合。 射は $f_0,f_1,f_2,f_3,\ldots$ で、射の合成は足し算……でも、 これが圏だと言われても、何をどう納得すればいいんでしょう」
ミルカ「この圏 $\CatN$ は、どんな数学的対象を圏と見なしているのだろうか」
テトラ「……」
ミルカ「たとえば、この圏 $\CatN$ の恒等射は何か?」
テトラ「すみません……わかりません」
ミルカ「君は?」
僕「いや、難しいね。僕にもわからない。 $N = \SET{0,1,2,3,\ldots}$ なんだから、 恒等射は、 $$ \ID{0},\ID{1},\ID{2},\ID{3},\ldots \qquad \textrm{(?)} $$ ということだよね?」
ミルカ「テトラ?」
テトラ「先輩、それは違いますよ。この圏 $\CatN$ の恒等射は、 $$ \ID{\CN} $$ です。対象が $\CN$ しかないんですから、恒等射も $\ID{\CN}$ しかないはずです」
僕「あっ!」
ミルカ「テトラが正しい。 君は圏 $\CatN$ の対象が $0,1,2,3,\ldots$ だと勘違いしているようだ」
僕「そうだね。 圏 $\CatN$ を考えるとき、 $N$ から $N$ への写像が射だと勘違いしてた。 そのせいで $f_0,f_1,f_2,f_3,\dots$ が射だと言われたときも混乱してたんだ」
ミルカ「だから、圏を考えるときには《対象は何か》と問うのは正しい態度なのだ」
テトラ「あたし、いま閃きました! この圏 $\CatN$ の恒等射は、 $f_0$ ですね。 つまり、 $$ \ID{\CN} = f_0 $$ ですっ! この圏 $\CatN$ は、 $0$ 以上の整数の足し算のようすを表してるように感じます!」
ミルカ「それでいい。
テトラ「モノイド?」
僕「モノイド? ……それは、群や環や体のような種類の名前?」
ミルカ「そうだ。 モノイドは、逆元の存在を仮定しない群といえる」
テトラ「モノイド……」
ミルカ「圏 $\CatN$ はモノイドの中でも特に可換性を持つもので、可換モノイドと呼ばれるものの例と見なせる」
テトラ「可換モノイド……」
ミルカ「名前はともかく、モノイドを圏と同一視する例は、 集合と写像のイメージを圏の話から切り離すのにとてもよい」
僕「確かに……」
ミルカ「テトラは圏 $\CatN$ の理解が早かったな」
テトラ「あ、いえ、まだ《お友達》になったばかりです。 でも《小さな $n$ で考える》ことでわかったんですよ」
テトラの実験
あたしは、 $f_0,f_1,f_2,f_3,\ldots$ が圏 $\CatN$ の射であることを知っています。
合成射の定義で、 $$ f_{n} \circ f_{m} = f_{m+n} $$ というのがありました。 試しに、 $m = 10$ で $n = 20$ にしてみると、 $$ f_{20} \circ f_{10} = f_{10+20} = f_{30} $$ になるので、 結局、 《$\CatN$ での射の合成》が 《$N$ での足し算》 に対応しているのだと気付きました。
でも考えてみれば最初から、 射の合成は、
あたしが $\ID{\CN} = f_0$ だとわかったのは、 $$ f_{3}\circ f_0 = f_{0+3} = f_3 = f_{3+0} = f_0\circ f_{3} $$ だと思ったからです。
僕「なるほどなあ……テトラちゃんは基本に忠実なんだね」
ミルカ「テトラは、 圏 $\CatN$ に対象が $\CN$ しかない事実がどう効いているかを答える」
ミルカさんは静かにそう言ってテトラちゃんを指さした。
テトラちゃんは指を軽く噛んで考える。
テトラ「対象が一つである事実がどう効いているか……」
僕「なるほど」
ミルカ「君は口を閉じる」
僕「はいはい」
テトラ「……わかりましたっ! 対象が一つであるということは、 どの射 $f_n$ も、 $$ \FromArrowTo{\CN}{f_n}{\CN} $$ のように始域と終域が $\CN$ のはずです。 始域と終域がどちらも $\CN$ なので、 圏 $\CatN$ の射はどの二つを持ってきても必ず合成できるという保証があるんですね!」

ミルカ「それでいい」
テトラ「納得です!」
ミルカ「ではまた別の圏を作っていこう。 名前は $\CatZ$ とする」
僕とテトラちゃんが一緒に手を挙げたので、 僕たちは顔を見合わせて笑った。
ミルカさんも笑った。
ミルカ「同時に質問するのか」
僕「その圏の対象は何?」
テトラ「その圏の対象は何でしょうか?」
ミルカ「この圏の対象も、たった一つだ。さっきはテトラが $\CN$ という名前を付けた。 もちろん $\CN$ でもいいのだけれど、せっかくなので別の名前にしよう」
僕「たとえば $\CZ$ とか?」
ミルカ「そうしようか」
テトラ「圏 $\CatZ$ の射はどうするんでしょう」
ミルカ「さっきの圏 $\CatN$ は $0$ 以上の整数で作った。 今度の圏 $\CatZ$ は整数で作ってみよう。 整数 $n$ に対して $g_n$ という射を対応させる。そして」
テトラ「ミルカさん、今度は引き算ですねっ! $$ g_n\circ g_m = g_{m-n} \qquad\textrm{(?)} $$ つまり、引き算を使って合成射を定義するんです」
僕「なるほどね」
ミルカ「いや、なるほどじゃないよ、君」
テトラ「違いましたか……」
ミルカ「ナイストライだが、足し算と引き算では重大な違いがある。 それは引き算では結合律が成り立たないことだ。 たとえば、 $$ \begin{xalignat*}{2} (10 - 5) - 3 &= 2 \\ 10 - (5 - 3) &= 8 \end{xalignat*} $$ なので、 $$ (10 - 5) - 3 \NEQ 10 - (5 - 3) $$ になる。だから引き算で射の合成を定義するなら、 その合成は結合律を満たさないことになり圏にはならない」
僕「そうか、そうだね……確かに」
ミルカ「圏 $\CatZ$ は整数 $Z = \SET{\ldots, -3, -2, -1, 0, 1, 2, 3, \ldots}$ を使って、 次のように定義しよう」
圏 $\CatZ$

テトラ「ああ、こちらも足し算でいいのですね。 そうか……そもそも $m$ や $n$ は整数ですからマイナスもあるんでした……」
ミルカ「この圏 $\CatZ$ での恒等射は、もちろん $$ \ID{\CZ} = g_0 $$ となる。そして $\CatZ$ には重要な性質がある。 それは、任意の $n\in Z$ に対して、 $$ g_n\circ g_{-n} = g_0 \KATSU g_{-n}\circ g_{n} = g_0 $$ が成り立つこと。 別の書き方をするなら、 $\CatZ$ の任意の射 $g$ に対して、 ある射 $g'$ が存在して、 $$ g\circ g' = \ID{\CZ} \KATSU g'\circ g = \ID{\CZ} $$ が成り立つということ。 このとき、 射 $g'$ のことを射 $g$ の逆射という。 一般的に定義しよう」
逆射
$a,b$ を圏 $\CatC$ の対象とする。 射 $h \in \HomC{a}{b}$ に対して、 次の性質を持つ射 $h'\in\HomC{b}{a}$ を $h$ の逆射という。
$$ h'\circ h = \ID{a} \KATSU h\circ h' = \ID{b} $$

テトラちゃんは指を図の上でしばらく往復させて考えていた。
テトラ「あっ、あー……なるほど」
ミルカ「テトラはその《なるほど》を言語化する」
テトラ「ええっと、あのですね。 圏 $\CatZ$ では、対象が $\CZ$ 一つでしたから $g$ の逆射 $g'$ を考えるときに始域と終域を意識せずに済みました。 でも一般にはそうはいかないんですね」
ミルカ「テトラはその《そうはいかない》をさらに言語化する」
テトラ「あっ、はい。 たとえば、射 $h\in \HomC{a}{b}$ の始域は $a$ で終域は $b$ です。 $$ \FromArrowTo{a}{h}{b} $$ でも、そこから戻ってくる逆射 $h'\in\HomC{b}{a}$ は、始域と終域が逆転します。 始域が $b$ で終域が $a$ です。さもないと戻ってこれません。 $$ \ToArrowFrom{a}{h'}{b} $$ あたしは、 $h'\circ h$ と $h\circ h'$ が等しくなる恒等射の対象が違う理由がそれで納得できたので、 『なるほど』と思ったんです」
$$ \begin{xalignat*}{2} h'\circ h &= \ID{a} && \textrm{$\ID{a}$は$a$の恒等射} \\ h\circ h' &= \ID{b} && \textrm{$\ID{b}$は$b$の恒等射} \end{xalignat*} $$ミルカさんはテトラちゃんの説明に頷いた。
僕「ちょっと待って。いまの逆射の定義で $h$ の逆射を $h'$ と表記したけど、 これも一意性の証明が必要になる表記だよね?」
ミルカ「その通りだ。射 $h$ に対して逆射 $h'$ が一意に定まること。 それは証明が必要な事実。その証明ができてこそ、 $h'$ という表記ができる。 さっそく証明しよう」
僕「《二つあったとすると、その二つは等しい》だね」
問題2(逆射の一意性の証明)
$a,b$ は圏 $\CatC$ の対象とする。
射 $h \in \HomC{a}{b}$ が逆射を持つならば、その逆射は $h$ に対して一意に定まることを示せ。
テトラ「あ、あたし、やってみたいですっ! $h_1$ と $h_2$ がどちらも $h$ の逆射であるとします。 逆射の定義から……」

ミルカ「どう?」
テトラ「……だめです。 $h_1$ と $h_2$ がどちらも $h$ の逆射であるとします。 逆射の定義から、 $$ h_1\circ h = \ID{a} \KATSU h\circ h_1 = \ID{b} $$ $$ h_2\circ h = \ID{a} \KATSU h\circ h_2 = \ID{b} $$ が成り立ちます。 そこまではいいんですが、次の一歩がわかりません……」
ミルカ「君は?」
僕「たぶん、できたと思う」
解答2
$h_1$ と $h_2$ がどちらも $h$ の逆射であるとする。
すると、 $$ \begin{xalignat*}{2} h_1 &= h_1\circ\MARKA{\ID{b}} && \textrm{$\ID{b}$は$b$の恒等射だから} \\ &= h_1\circ\MARKA{(h\circ h_2)} && \textrm{$h_2$は$h$の逆射だから} \\ &= \MARKB{(h_1\circ h)}\circ h_2 && \textrm{結合律から} \\ &= \MARKB{\ID{a}}\circ h_2 && \textrm{$h_1$は$h$の逆射だから} \\ &= h_2 && \textrm{$\ID{a}$は$a$の恒等射だから} \\ \end{xalignat*} $$ だから、 $$ h_1 = h_2 $$ となり、 $h$ の逆射は $h$ に対して一意性を持つ。
テトラ「なるほど……あたしは、 $h_1$ から $h_1\circ\MARKA{\ID{b}}$ を作るという発想ができませんでした。 さらに、その $\MARKA{\ID{b}}$ を $\MARKA{h\circ h_2}$ だと思うのも無理でした。 結合律でつなぎかえた後は 同じことを $h_2$ に向かって逆向きに進んでいけばいいのでわかります」
テトラちゃんは僕の証明を読みながら、 指をぐるぐる回してそう言った。
ミルカ「テトラは、その指の運動を視覚化する」
テトラ「あ、はい。こういうことです。
(1) $h_1$

(2) $h_1\circ\MARKA{\ID{b}} $

(3) $h_1\circ\MARKA{(h\circ h_2)} $

(4) $\MARKB{(h_1\circ h)}\circ h_2 $

(5) $\MARKB{\ID{a}}\circ h_2 $

(6) $h_2 $

ミルカ「ふむ。 では、いっしょに鳥になろうか」
僕「え?」
テトラ「は?」
ミルカ「さっき君は、 集合 $X$ 上の恒等写像の一意性を次のように証明した」
恒等写像の一意性の証明
$\Ident_1$ と $\Ident_2$ がどちらも集合 $X$ 上の恒等写像だとすると、 $X$ に属する任意の要素 $x$ に対して、 $$ \Ident_1(x) = x = \Ident_2(x) $$ が成り立つ。 集合 $X$ の任意の要素に対して $$ \Ident_1(x) = \Ident_2(x) $$ が成り立つことから、 $$ \Ident_1 = \Ident_2 $$ がいえる。 よって、集合 $X$ 上の恒等写像は $X$ に対して一意に定まる。
僕「そうだね」
ミルカ「ここで $\CatSet$ と呼ばれる圏を考える」
テトラ「その圏 $\CatSet$ の対象は何ですか?」
ミルカ「圏 $\CatSet$ の対象は集合だ」
僕「圏 $\CatSet$ の射は……写像?」
ミルカ「そうだ。 集合 $X$ から集合 $Y$ への写像 $f$ を、 始域が $X$ で終域が $Y$ の射と見なす。 そして合成射 $g\circ f$ は、通常の写像の合成として定義する。 射の合成が結合律を満たすことは、 写像の合成が結合律を満たすことからいえる」
圏 $\CatSet$
僕「それは納得がいくね」
ミルカ「圏 $\CatSet$ の対象 $X$ の恒等射 $\ID{X}$ は写像の言葉でいうなら何になるか」
僕「集合 $X$ 上の恒等写像だね。 それが圏 $\CatSet$ における対象 $X$ の恒等射 $\ID{X}$ になる」
ミルカ「なぜそういえる?」
僕「そりゃ、恒等射の定義を満たすから」
ミルカ「だとすると、 恒等射の一意性から、 恒等写像の一意性がいえるわけだ」
僕「うん? いま、なんて言った?」
ミルカ「恒等射の一意性から、 恒等写像の一意性がいえる」
テトラ「……?」
ミルカ「圏において、恒等射は対象ごとに一意に決まる。 それはすでに解答1で証明した。 そして圏 $\CatSet$ において、集合 $X$ 上の恒等写像は対象 $X$ の恒等射と見なせる。 ということは、 集合 $X$ 上の恒等写像は集合 $X$ に対して一意に定まるといえる」
僕「うーん……そうか。 もしも集合 $X$ 上の恒等写像が集合 $X$ に対して一意に定まらなかったら、 対象 $X$ の恒等射が一意に定まらないことになってしまうのか!」
ミルカ「この証明がおもしろいのは、 恒等写像の一意性を示すのに、 集合の個々の要素については何も述べていないところにある。 圏の対象である集合、その内部構造に立ち入らずに証明できたといってもいい」
僕「……」
テトラ「……」
ミルカ「私たちはいま鳥になっている。 鳥になって空を飛んでいる。 高い空から俯瞰するとき、細かい内部構造は見えない。 しかしそれでも証明できることがある。それが圏論の視点なのだ。 レンスターの『ベーシック圏論』序文はこう続く」
圏論は鳥の目で数学を俯瞰する。
空高くからは詳細は見えなくなるが、
地上では見抜けなかったパターンに焦点を当てることができる。
僕「圏論って、もしかしてめちゃめちゃおもしろい分野?」
テトラ「数学を俯瞰する数学?」
ミルカ「私たちは、まだ圏の定義に触れただけだ。 それでも自分の手でさまざま試してみることができる。 たとえば、圏 $\CatSet$ における逆射の概念は、写像の言葉でいえば何に相当するだろうか」
僕「逆写像だね! あっ、もしかして逆写像の一意性も証明できたことになるのか!」
テトラ「さっき解答2で逆射の一意性を証明したからですね?」
ミルカ「その通り。 もちろんそのためには、 圏 $\CatSet$ における逆射は 逆写像であることを確かめる必要がある。 そこで次に……」
瑞谷先生「下校時間です」
司書の瑞谷先生が下校時間を宣言する。
今日の《数学トーク》はこれで終わる。
でも、僕たちの学びは終わらない。
鳥になって、僕たちは大空を飛ぶのだ!
参考文献・Webサイト
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(2026年4月24日)