登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
テトラちゃん:僕の後輩。 好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。言葉が大好き。
テトラ「……それにしても数学はおもしろいです。 確かに先輩がおっしゃった通り、 数学を学んで《視点が変わる》という感じがします(第465回参照)」
僕「そうだね」
テトラ「『数の大小関係 $\LEQ$』と『集合の包含関係 $\subset$』は、 一見すると違うものですけれど、視点を変えればどちらも半順序といえます」
僕「うん」
テトラ「それから《関係》そのものについても、 視点を変えれば《集合》だと見なすことができます。 そうすると……なんて言うんでしょうか、 生々しいところから少し離れて考えているようにも感じられます」
僕「生々しい?」
テトラ「ええとですね、 『数の大小関係 $\LEQ$』だと、大きい・小さいというリアルな現実世界のイメージがあるじゃないですか。 でも、たとえば $x \LEQ y$ のことを $(x,y)$ と表して、 $x \LEQ y$ が成り立つ $(x,y)$ を集めた《集合》を考えるなら、 そういうイメージからちょっと離れた感じがします。 $S = \SET{0,1,2}$ における大小関係を $$ R_\LEQ = \SET{(0,0),(0,1),(0,2),(1,1),(1,2),(2,2)} $$ という $(x,y)$ の《集合》として表すと、 現実世界へのつながりから切り離して考えられるので、 むしろ扱いやすいと感じました」
僕「うーん……そうか。 イメージに縛られないから、 《関係》と《関係》の間の《関係》なんて発想になるんだね。 おもしろい考え方だなあ」
テトラ「それから先輩がおっしゃっていた《同一視》についても思うことがあります」
僕「《同一視》は違うものを、あたかも同じものとして見なすことだね」
テトラ「はい。あたしが気付いたのは《名前あるところに同一視あり》ということです」
僕「おお?」
テトラ「たとえば、あたしが思ったのは《順序》という名前のことでした。 数の大小関係や集合の包含関係の両方を《順序》という同じ名前で呼ぶ。 同じ名前で呼ぶからには、両方を同じものだと見なしているわけです。 つまりそこには必ず《同一視》があると思ったんです……へ、変でしょうか?」
僕「いやいやいや、ぜんぜん変じゃないよ、テトラちゃん。 まったくその通りだね。 『これは○○だ』のように○○という《名前》が出てくるときには、 どうして○○という《名前》を出したのかという理由がある。 その理由とは、その《名前》を持つのにふさわしい性質を持っているから。 その性質を持っているからこそ、その《名前》で呼んでいる……」
テトラ「ですです。そういうことです」
僕「……ちょっと待って。それは、まさに数学用語の定義だ」
テトラ「?」
僕「たとえばさっきの、 $$ R_\LEQ = \SET{(0,0),(0,1),(0,2),(1,1),(1,2),(2,2)} $$ という集合が半順序を表しているというときには、 半順序という数学用語の定義と照らし合わせることになる。 つまり、反射律・反対称律・推移律という公理を満たしているかを調べる。 それは、 $R_\LEQ$ に対して半順序という《名前》を与えることができるかどうかを調べているんだね」
テトラ「……」
僕とテトラちゃんは口を閉じてしばらく考える。
そして、それぞれに、 《名前》と《同一視》について、そして数学用語の定義について思いを巡らせる。
ミルカ「テトラがいるのに、ずいぶん静かだな」
テトラ「ミルカさん!」
登場人物紹介(追加)
ミルカさん:数学が好きな高校生。 僕のクラスメート。メタルフレームの眼鏡に長い黒髪の《饒舌才媛》。
ミルカ「それで、今日の数学は?」
僕「いま話していたのは……」
僕とテトラちゃんは、これまでの議論を手短に話す。
順序の公理、 関係を集合で表すこと、 関係同士の関係を考えること、 そして名前と同一視について。
ミルカさんはそれを黙って聞いている。
ミルカ「ふうん……では、圏の話をしよう。 それもまた、同一視の新たな視点を与えてくれる」
テトラ「《けん》というのは、どういう字を書くんでしょうか?」
ミルカ「『首都圏』や『大気圏』の『圏』だ。英語ではカテゴリーという」
テトラ「圏……それは、数学用語なんですよね。どういうものなんですか?」
ミルカ「それを今から話すんだよ、テトラ。圏という数学用語の定義だ。 すなわち、どのような性質を持っているものを圏と呼ぶのか、 それを話していこう」
テトラ「はいっ!」
こんなふうにして、ミルカさんによる《圏論》の講義が始まった。
ミルカ「少しずつ行こう。まずは対象から」
圏の定義1(対象)
対象の表記
すかさず、テトラちゃんが挙手をする。
テトラ「その《対象》とはどんなものでしょうか。 あ、あの……すごく抽象的なのでどう考えたらいいかわかりません。 たとえば《対象》は数のようなものでしょうか?」
ミルカ「数が対象になることもあれば、集合が対象になることもある。 対象が具体的にどんなものであるか、それをまとめていうことはできない。 それはちょうど、集合の要素がどんなものであるかを具体的に述べるのが難しいのに似ている」
テトラ「……?」
ミルカ「むしろ話は逆だ。 具体的な圏を述べるときには、 『この圏では何を対象と見なすのか』を述べることになる。 だから、たとえば『$C$ は圏である』という主張を聞いたなら、
と圏の対象について問いかけるのは正しい態度だ」
僕「なるほど。 一般的に、集合の要素とは数のことですかと聞かれても困るけど、 具体的な集合に対して、その要素は何かと聞くようなものか」
ミルカ「そう」
テトラ「えっえっ、いまのお話、わかりませんでした」
僕「実数の集合なら、その集合の要素は実数だし、 複素数の集合なら、その集合の要素は複素数になる。 圏の場合も、その圏の対象は何なのかは圏によって違うということだね」
ミルカ「そういうこと」
テトラ「ははあ……圏というものはともかく《対象の集まり》を持っている。 その対象が何かは具体的な圏を考えないと決まらない。 そこまでは何となくわかりました」
僕「ところで、ミルカさんが言った《集まり》というのは《集合》のこと?」
ミルカ「これから話す範囲では《集まり》は《集合》と考えていい。 だが、厳密には集合よりももっと大きな概念を使う。 でも話をややこしくしたくないので、いまは《集まり》として濁しておく」
僕「わかった、いいよ」
テトラ「対象は英語で何というんでしょう」
ミルカ「圏の対象は英語でオブジェクトという。 $\OBJECT{C}$ はそこから来ている」
テトラ「オブジェクト。《もの》ですか……英語でも抽象的なんですね。イメージをつかむのが難しいです」
ミルカ「ふむ。 それでは、圏の定義を段階を追って説明しながら、それに合わせて 集合 $S = \SET{0,1,2}$ の大小関係($\LEQ$)を使った圏を具体的に作っていくことにしよう」
テトラ「あっ、それは助かります。具体例があるとイメージしやすくなりますから……」
ミルカ「いまから作るその圏に $A$ という名前を付ける。 つまり……私はこれから『$A$ は圏である』といいたいのだ」
ミルカさんはそこで言葉を切る。
そして口を閉じたまま、テトラちゃんと僕の顔を交互に見る。
沈黙のまま時間が過ぎる。
この沈黙の時間は一体何だろう。
テトラ「……はい、あの、圏 $A$ ですね。それは分かりましたが……?」
ミルカ「テトラは私に問いかけるはず」
テトラ「あっ! はいはい。そうでした、そうでした。 ミルカさんが作ろうとしている圏 $A$ の対象は何ですか?」
ミルカ「それでいい。 私が作る圏 $A$ の対象は $0,1,2$ だ。つまり、
ということ。そして、
が成り立っている。いまは表記の練習をしているんだよ」
テトラ「は、はい。それはわかっています。 大丈夫です」
例:大小関係の圏 $A$ の対象
圏 $A$ は対象の集まり $\SET{0,1,2}$ を持っているものとする。 つまり、 $$ \ObA = \SET{0,1,2} $$ とする。
ミルカ「圏が持っているのは対象の集まりだけではない。射の集まりも持っている。
圏の定義2(射)
テトラ「射というのも抽象的ですね。 いま、あたしの頭の中にはふわふわと《圏》というものがあり、 その中には《対象》と《射》が集まっている……というイメージだけが浮かんでいます。 射は英語で何というんでしょう」
ミルカ「射は英語でアローという」
テトラ「弓矢の矢ですね」
ミルカ「そして射は次のような性質を持たなくてはならない」
圏の定義3(射の始域と終域)
僕「なるほど。イメージが湧いてきたよ。 射は写像みたいなものかな? 始域から終域に向かう矢のようなイメージ」
ミルカ「ある圏ではその通り。 つまり、集合を対象とし、写像を射とする圏を考えることができる。 しかし、ここで重要な注意が入る。 写像を射と見なす圏を考えることはできる。 しかし、圏の射がすべて写像になるとは限らない」
僕「あ、そうなんだ」
ミルカ「圏では次のような図式で一つの射を表す。始域から終域に向かう矢印だ。 始域と終域はその圏の対象になる」
射の図式(圏 $C$ における対象 $a$ から対象 $b$ への射 $f$ の図式)

射 $f$ の始域は $a$ で、終域は $b$ である。
テトラ「なるほど。確かにアローですね」
ミルカ「射の集まりの表記法を準備する。 圏 $C$ で《始域を $a$ とし、終域を $b$ とする射》の集まりを $\HomC{a}{b}$ と書く。 こうすると、上の図式は、
という状況を示している」
射の表記
テトラ「$\HomC{a}{b}$ は射の集まり……というのがわかりませんでした。 $f = \HomC{a}{b}$ ではなくて $f\in\HomC{a}{b}$ でいいんですか?」
ミルカ「テトラのいまの質問は、 $a$ から $b$ への射はたかだか一つに決まるのではないか、という前提があるように聞こえる。 そのような制約を設けた薄い圏と呼ばれるものはあるけれど、 圏の定義としてはそうではない。 だから、二つの対象 $a,b$ が与えられたとき $a$ から $b$ への射は複数あっても構わない」
僕「$\HomC{a}{b}$ が射を三つ持つ状況は、こういうことだね」
$\HomC{a}{b} = \SET{f_1,f_2,f_3}$

テトラ「そういうことですか……」
ミルカ「大小関係を表す圏 $A$ の例を続けることにしよう。 さっきは $\ObA = \SET{0,1,2}$ とした。 圏 $A$ の射を次のように定義する。
例:大小関係の圏 $A$ の射
圏 $A$ における射を大小関係 $\LEQ$ を使って次のように定義する。
$x,y\in\SET{0,1,2}$ に対して、
$$ x \LEQ y \LONGBOTHIMPLIES \textrm{《$x$から$y$へ唯一の射が存在する》} $$
と定義する。
僕「なるほど?」
テトラ「え、ええっと……」
僕は圏 $A$ の射についてすばやく考える。
僕「つまり、こういうことかな。 $\HomA{x}{y}$ は《$x$ から $y$ への射の集まり》だよね。 その表記を使うなら、 大小関係の圏 $A$ では、 $x,y\in\SET{0,1,2}$ に対して、 $\HomA{x}{y}$ をこう定義するんだね?」
例:大小関係の圏 $A$ の射(別の言い方)
ミルカ「そういうこと」
テトラ「わかりません……表記に飲み込まれてしまいました……」
ミルカ「せっかくの例なのに具体的に書かなかった私が悪かった」
例:大小関係の圏 $A$ の射(一覧)
テトラ「ここに出てくる $f_{0,0}$ や $f_{0,1}$ というのは圏 $A$ の射の名前ということですよね?」
ミルカ「そう。もちろん $f_{x,y}$ は始域が対象 $x$ で、終域が $y$ であることを意味している」
テトラ「つ、つまり、圏 $A$ が射としてたとえば $f_{1,2}$ を持つというのは、 $1 \LEQ 2$ という大小関係が成り立つことを意味している?」
ミルカ「その通り。テトラは正しく理解している」
テトラ「あの……間違っているかもしれませんが、 でもそれは、 $1 \LEQ 2$ を $(1,2)$ というペアで表しているのと変わりないように思います。 実際、圏の射の一覧に出てくる $f_{x,y}$ は、 $$ R_\LEQ = \SET{(0,0),(0,1),(0,2),(1,1),(1,2),(2,2)} $$ に出てくる $(x,y)$ と同じことです」
ミルカ「その通り。 いまは $\SET{0,1,2}$ 上の大小関係 $\LEQ$ を圏と見なすことで、 圏の定義の例としているからね」
テトラ「ああ、はい、そうですね。そうでした。 表し方が違うだけで、同じことをいってる。 一つのものを違う視点から見ている。 同じものを別の表現で述べている……はい。そうでした」
テトラちゃんは、そういって深く頷いた。
ミルカ「さあ、ここまでで、 圏は《対象の集まり》と《射の集まり》を持っていると話した。 大小関係の圏 $A$ を具体例としてきた。 でもまた圏の定義は終わっていない。 実はここからが本題になる。 圏における対象や射がどのような性質を持っていなくてはならないか。それを話していこう」
僕「……」
テトラ「……」
僕とテトラちゃんは、ミルカさんの言葉に黙って頷いた。
ミルカ「射は合成できる。合成できなければ圏の射とは呼べない」
圏の定義4(合成射)
任意の射 $f\in\HomC{a}{b}$ と任意の射 $g\in\HomC{b}{c}$ に対して、 合成射と呼ばれる射 $g\COM f\in\HomC{a}{c}$ が存在する。

ここで $\COM$ は二つの射の組から一つの射を得る二項演算で、 結合律を満たす。つまり任意の射 $f,g,h$ に対して、 $$ h\COM(g\COM f) = (h\COM g)\COM f $$ が成り立つ。
僕「これは写像の合成を考えればすぐ納得できるルールだなあ」
ミルカ「同じルールだからな」
テトラ「$a$ から $b$ に $f$ で進んで、 $b$ から $c$ に $g$ で進んだら、 合成射は $g\circ f$ でいいんですか? $f\circ g$ ではなく」
僕「これは表記の問題だよね。 写像の合成の表記に合わせてるんだと思うけど。 写像 $f$ が $y = f(x)$ で、写像 $g$ が $z = g(y)$ のとき、 合成写像は、 $z = g(f(x))$ だから、 表記の順番に合わせて $g\circ f$ と書く。つまり $(g\circ f)(x) = g(f(x))$ ということ」
テトラ「ああ……あたし、いかにも間違えそうです」
ミルカ「$g\circ f$ の代わりに $f\FATSEMI g$ のように書く流儀もあるが、いまは $g\circ f$ で進もう」
そこで、テトラちゃんが急に何かを考え始めた。
そして、少ししてから「念のために確認したいことがあります」と言い出した。
テトラ「念のために確認したいことがあります。 『どうして圏の射は合成できるのか?』 という問いは意味がないんですよね?」
ミルカ「その問いをしたということは、 テトラはその問いに自分で答えられるのではないかな?」
テトラ「あ……はい。 これはあたしが数学のあちこちで引っかかってきたところなので、答えられます。 『どうして圏の射は合成できるのか?』という問いに答えるなら、 『合成できるということが射と呼べる条件の一つだから』だと思います」
ミルカ「それでいい。 合成できなければそもそも射とはいえない。 だから、射が合成できるのはあたりまえだ。 そのように定義したのだから」
僕「なるほど、そうか。 圏 $A$ の例でいうと、大小関係 $\LEQ$ で推移律が成り立つことが、 合成射の存在保証になっている!」
テトラ「えっえっ?」
僕「大小関係の言葉でいえば、
という推移律が成り立っている。 それを圏 $A$ の言葉に直すと、
といえる。 だから、合成射 $f_{y,z}\COM f_{x,y}$ を $$ f_{y,z}\COM f_{x,y} = f_{x,z} $$ のように $f_{x,z}$ で定義できる。 まとめると、 $$ f_{y,z}\COM f_{x,y} = f_{x,z}\qquad (x\LEQ y\LAND y\LEQ z\IMPLIES x\LEQ z) $$ ということ」
例:大小関係の圏 $A$ の合成射(一覧)
ミルカ「対象は恒等射を持つ。恒等射を持たなければ圏の対象とは呼べない」
圏の定義5(恒等射)
$a$ が圏 $C$ の対象であるとき、 $a$ の恒等射と呼ばれる射 $\ID{a}\in\HomC{a}{a}$ が存在する。

$a$ の恒等射は次の性質を持つ。


僕「なるほど! 恒等射の存在は大小関係の圏 $A$ でいえば反射律に対応しているんだ!」
例:大小関係の圏 $A$ の恒等射(一覧)
ミルカ「ここまでで、 圏、対象、射、 射の始域と終域、 合成射と恒等射を説明した」
テトラ「はい。大小関係の圏 $A$ という例のおかげで、少しイメージがわかってきました」
ミルカ「では次に……」
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(2026年4月17日)