登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
テトラちゃん:僕の後輩。 好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。言葉が大好き。
ここは高校の図書室。
いまは放課後。
僕はいつものように数学を考えるためにやってきた。
授業に関わる勉強をすることもあるけれど、 自分の好きな問題を考えることもある。 もちろん、本棚を巡りながらおもしろそうな本を読むことも多い。
そして、後輩のテトラちゃんと《数学トーク》に興じることもある。
彼女が疑問に思っているところを一緒に考えたり、 僕がわかるところは教えたり、 ときには、彼女が勉強したことを僕の方が教えてもらうことだってある。
そうそう、先日などはテトラちゃんがアルゴリズム講義をしてくれたっけ(第321回参照)。
要するに、僕とテトラちゃんは、数学を通じて語り合う、大の仲良しなのだ。
僕は図書室を見渡して、熱心に何かを読んでいるテトラちゃんの姿を見つけた。
僕「テトラちゃん、今日は何を読んでいるの?」
テトラ「あっ、せ、先輩!」
テトラちゃんは、僕の顔を見るなりノートをさっと閉じ、いままで読んでいた紙をそこにスッと挟み込んだ。
えっ……?
それは、まるで、僕にその紙を見られたくない——そんな振る舞いに見えた。
僕「……あ、驚かせちゃった? ごめんね。《カード》を読んでたみたいだったから、 また村木先生から新作問題が来たのかなと思ったんだ」
村木先生は、数学教師。僕たちにときどき《カード》という形でおもしろい問題や数学の話題を提供してくれるんだ。
テトラ「あ、ええとですね……」
僕「?」
テトラ「どう言えばいいのか……いまは、このことは、あたしが一人で考えたいと思っていてですね……」
いつも元気なテトラちゃんが、歯切れの悪い言い方をしている。珍しいな。
僕「ああ、そういうことはあるよね。自分一人で問題に取り組みたいとき、あるある。 ついうっかり人に話してしまうと、その問題のヒントがやってきたりする。それはちょっと困るよね。 せっかく自分の頭で考えたいと思っていたのに、その一言は言わないでほしかった! ……って思っちゃう。 そういえば、このあいだもね、僕がミルカさんに——」
テトラ「……」
僕「——まあその話はいいや。じゃ、僕はこの席で自分の勉強をやってようかな」
僕は、テトラちゃんの向かいに座ろうとした。
テトラ「あっ!」
僕「えっ?」
テトラ「あの、あのですね……」
テトラちゃんが口ごもる。
僕「……ああ、うん、わかった。気が散るってことかな。 そういうのもあるよね。 じゃあ、僕はあっちにいるよ。 瑞谷先生の《下校時間です》宣言になったら、帰りは駅までいっしょに行こうね」
テトラ「はい、そうですね……すみません」
僕「じゃあ、また」
僕は、明るいトーンでそういうと、テトラちゃんからだいぶ離れたところに着席して、自分の勉強道具を開いた。 今日は、授業で出てきた問題の別解を考えようと思っていたんだ。さあ、じゃあ、考えるか……
……でも、どうも気持ちが落ち着かない。
テトラちゃんの方をちらちら見ると、彼女はノートからまたさっきの紙を取り出して熱心に読んでいる。 やがて、ノートに何か書いては考え、書いては考え……。
いったい、何が起きてるんだろう。やっぱり村木先生の《カード》なのかな。
そして、時間が過ぎる。
瑞谷先生「下校時間です」
もやもやとした時間が過ぎ、ようやく下校時間になった。
校門を出た僕とテトラちゃんは、並んで駅まで歩く。
テトラ「……」
僕「……」
僕たちはしばらく、うねうね曲がった住宅地の道を抜けていく。
テトラ「あの——今日はすみませんでした。 せっかくお声がけしてくださったのに」
僕「いやいや、別にいいんだよ。僕もそういうとき……ひとりで考えたいことってあるから、気持ちはわかるし、何も気にすることはないよ」
テトラ「はい……でも、あたしはちゃんと説明すべきでした」
僕「説明って、何を?」
テトラ「あたしが何を一人で考えていて、そしてそれはどうしてか……それをちゃんと説明すべきだったと思います。 すみません」
僕「うーん……ぜんぜん謝る必要はないんだけどなあ」
テトラ「実はですね。 このままでいいのかな、と思ったんです」
僕は、テトラちゃんの言葉に思わず立ち止まる。
僕「このままでいいのかな——って、いったい何のこと?」
テトラ「あたしのこと、です」
僕「ちょっと待って、テトラちゃん。それって深刻な話?」
テトラ「い、いえ……深刻な話ではありません。でも、真面目な話です。あたしにとって、真面目な話です」
僕「こうやって歩きながら聞いてもいい話なのかなって思ったんだ」
テトラ「はい、大丈夫です」
僕「だったらいいんだけど……」
僕たちは再び歩き出す。
でも僕は、彼女が何を言い出すのか、まったく予想が付かない。
テトラ「あたし……あたしが先輩に初めて書いた手紙のこと、覚えていらっしゃいますか? ずいぶん以前のことですが」
僕「うん、もちろん覚えているよ(『数学ガール』参照)」
テトラ「あたしは、数学の勉強で悩んでいて……先輩に相談しました」
僕「そうだったね」
テトラ「そして先輩は、あたしの悩みを聞いてくださって、 いろんなことを教えてくださいました。 あのとき、相談に乗ってくださって、本当に助かりました。 そして、そこからずっと、先輩とミルカさんから多くのことを学んだと思います。 数学そのものだけじゃなくて、数学の学び方まで教えていただきました。 とても感謝しているんです」
僕「……僕の方もテトラちゃんには感謝してるんだよ。テトラちゃんはいつも一生懸命に問題に取り組むし、 根気強く考えるし、そして何より、とても根源的で本質的な質問をしてくれるから、僕の方こそ勉強になっていると思うんだ」
テトラ「でも、あたし……あたしは、このままでいいのかなって思うことがあるんです」
僕「よくわからないんだけど……どういう意味なのかなあ?」
テトラ「あたしは数学を学んでいて、わからないことがあると、先輩やミルカさんに尋ねて教えていただきます。 教えていただくと、すごくいろんなことがわかります。 ああ、そんなふうに考えればいいんだ!と感じたり、 そんなことまでできちゃうんだ!と驚いたりします。 それは、まるで、世界が広がっていくような感覚です。 そして、教えていただくことが楽しくなります」
僕「うん、わかるよ。数学は本当におもしろいよね」
テトラ「はいっ! ですから、教えていただくことはうれしくて、 本当にありがたいんですけれど……でも、でも、 それを続けていて、教えてもらうだけで、あたしには実力がつくんだろうか、と思うことがあるんです」
僕「……なるほど?」
テトラ「だって、そうですよね。 わからないことがあっても、先輩やミルカさんがすぐそばにいてくださると思っているから、つい聞いてしまいます。 答えがすぐに出せないときでも、一緒に考えてくださいます。そうやって答えにたどり着いたとしても、 その大半は先輩方の力であって、あたしの力ではありません」
僕「そんなことは——」
テトラ「そんなことはないよ、と先輩はやさしいので、おっしゃってくださるかもしれません」
僕「……」
僕の言葉にかぶせるようにして、テトラちゃんは言葉を続ける。
テトラ「でも、あたしの中には、本当に確かなものが積み上げられているんでしょうか。 ただ単に、自分よりもできる人に頼り切っているだけじゃないんでしょうか。 結局のところ、自分の力でできなければいけないわけですよね、勉強は。だとしたら、 あたしはもっと自分の力でがんばる練習をしなくちゃいけない——そんな風に思うんです。 先輩、そうですよね?」
テトラちゃんは、問いを投げてきた。
でも僕は、すぐに答えを返せない。
僕「……」
テトラ「あたしは、あたしは……」
僕「ねえ、テトラちゃん。あそこの公園でゆっくり話さない?」
僕とテトラちゃんは公園のベンチに並んで座った。
テトラ「す、すみません。あたしの勝手なおしゃべりに付き合わせてしまって」
僕「そんなことないよ。テトラちゃんの話はすごく大事なことだと思うし、 僕にとっても大事なことだよ。さっきも話したけど、テトラちゃんから質問されて、 それに答えるのは僕にとってもすごく勉強になっているんだ」
テトラ「……」
僕「もちろん、テトラちゃんが、一人で勉強する時間を持つのは大事だし、 実力をつけようと思うのも大事だけど、何て言うのかなあ……あまり『自分の力で!』って思い詰めないのも大事じゃないかなって感じるんだ」
テトラ「はい、それはそうかもしれませんけれど……あたしは、このままだと自信がないんです。 ぜんぜん進歩していないような気がして。このままでいいのかなって」
僕「たとえば数学は何千年も歴史があるわけだよね……僕たちはそのほんの一部を学んでいる。 ものすごく大きなもののごく一部、ごく易しい部分を学んでいる」
テトラ「ええ、だからこそ、そのくらい誰にも教わらずに、自分でわからなくちゃいけないんです。そうならなくちゃいけない」
僕「そうでもないと思うよ。理解してしまえばとても簡単だけど、 理解するまではすごく大変ということ、数学ではよくあるよね」
テトラ「はい、そうですね……」
僕「それは、やっぱり、さっきも言った数学の長い歴史が関係していると思う。 難しいところを突破するのには、歴史の中に現れるたくさんの数学者の力がいるんだよ。 ごく易しい部分を習っているとしても、本質的なところは難しいんだよ。 自分の力でそれを理解しようとするのは大事だけど、ぜんぶ自分の力でやろうとするのは無茶な部分がある」
テトラ「……」
僕「つまり、必要に応じた手助けがあったとしても、気に病む必要はないし、めげる必要はないんじゃないかなあ……誰かの説明を聞いて、 《わかったふり》をするのはまずいけれど、他の人の助けを借りて理解を進めるのに負い目を感じる必要はないよ」
テトラ「……そうなんでしょうか」
僕「繰り返しになっちゃうけど、テトラちゃんも、僕も、自分で勉強するのは必要だし、 自分の頭で考える必要はある。それは本当にそうだと思う。 でも、わからないことを人に尋ねるのは悪いことじゃないと思う。 自分で考えることと、人と話すことのバランスが大事じゃないのかなあ」
テトラ「バランスですか……でも、たとえばあたしは、 問題を考えているとき、本当にさっぱりわからないことがあります。ところが先輩方とお話ししていて、 ポンとわかってしまうこともあります。 そういうときは、もう、バランスというレベルじゃなくて、あたしには実力がないけれど、先輩方にはある——みたいな、 そんなふうに感じてしまいます」
僕「それは僕だって同じだよ。ミルカさんの答えはもちろんのこと、授業でもよくある。 『そんなの、自分には絶対に思いつけない!』という発想にぶつかったりするよね」
テトラ「先輩でもそうなんですか……そういうとき、もしかして『自分には実力がない』ってめげることもあります?」
僕「もちろんあるよ! がっかりするよね」
テトラ「そうなんですね……先輩は、そういうとき——つまり、自分の実力が足りないと感じてめげるとき——どうするんですか?」
僕「そうだなあ……」
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(2023年2月3日)