この記事は『数学ガールの秘密ノート/学ぶための対話』として書籍化されています。
登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
ユーリ:僕のいとこの中学生。 僕のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。 論理的な話は好きだが飽きっぽい。
ノナ:ユーリの同級生。 ベレー帽をかぶってて、丸い眼鏡を掛けていて、ひとふさだけの銀髪メッシュ。 数学は苦手だけど、興味を持ってる中学生。
今日は、ノナがやってくる日だ。
数学が苦手な中学生のノナは、いとこのユーリの同級生。
ひょんなことから、僕はノナに数学を教えることになった。
ひょんなことから?
いや、それは正確じゃないな。
有無をも言わせぬユーリの強制力により、僕はノナに数学を教えることになった。
まあ、それはいい。
僕は、ずっと考えている。もちろん、ノナのことだ。
僕「前回ノナちゃんが来たときには、ほんの少ししか数学の話はできなかったような……」
僕「あとはどんな話をしたっけ。まあ、でも、これだけ話せたのもすごいといえるか……」
僕は、ノナとの会話を思い出す。
「難易度が高い」というのが正直で率直な感覚だった。
ノナは数学が苦手だ、というのはきっと本当なのだろう。 だから、彼女が語る内容の難易度が高いわけではない。 彼女とのコミュニケーションの難易度が高いんだ。
そうだ、僕が注意すべき点もあったな。 数学の話で興に乗るとつい、早口になってしまうところだ。 早口禁止、早口禁止。 僕は、ノナの理解するペースに合わせて説明しなくちゃいけない。
いつもはユーリやテトラちゃんの理解のスピードに助けられていた。 ノナは、あの二人とは違う。 ちゃんとノナのスピードに合わせなくちゃいけない。
それはそれとして、ノナに伝えておいた方がいいこともいくつかあった。
僕「待てよ。ここまで、数学の話が一つも出て来てないな……いや、一つあった」
僕「こういうのは、テトラちゃんやユーリと《数学トーク》するときには当たり前なんだけど、ノナちゃんにもわかってもらいたいなあ」
僕は、ノナとの対話を想像しながら彼女を待つ。
そろそろ、約束の時間だ……
ユーリ「こんにちはー!」
ノナ「お邪魔します $\NONA$」
母「はいはい、いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
僕が玄関に行く前に、母さんが二人の応対をしていた。
今日もノナはベレー帽をかぶっている。
ユーリよりも一回り小柄なノナはうっかりすると小学生にも見えそうだ。
ユーリ「お兄ちゃん、うぃーっす」
僕「うぃーっす。ノナちゃんもいらっしゃい」
ノナ「こんにちは $\NONA$」
ユーリ「ほれほれ、ノナ」
ノナ「あの、これ $\NONA$」
ノナは菓子折っぽい箱を母さんに渡した。
母「あらあら、こんなことしなくてもいいのに」
ノナ「お母さんが持って行け……持って行きなさいって $\NONA$」
母「そうなの。お母さんによろしくお伝えくださいね。ありがたくいただきます。どうぞ上がってくださいな」
母は二人をリビングに招き、キッチンに向かった。
その動きを、ノナはずっと目で追っている。
僕「母さんのこと、ずっと見てるよね」
ノナ「エプロンかわいい $\NONAHEART$」
僕「母さん! エプロンがかわいいって! ノナちゃんがほめてるよ」
キッチンから、「あらうれしいわ」という母の声が返ってきた。
母さんのエプロン? どんな色だっけ。どんな柄だっけ。ぜんぜん覚えていないぞ。
僕「ところでノナちゃん、このあいだの話わかった?」
ノナ「こないだ $\NONAQ$」
僕「ほら、 $y = x$ や $y = 2x$ という式が、直線を表しているという話」
ノナ「$\NONAQ$」
ユーリ「《二つの世界》でしょ。《数式の世界》と《図形の世界》」
僕「そうだね。ノナちゃんは最後、くたびれて眠っちゃったけど」
ノナ「ごめん……ごめんなさい $\NONAX$」
僕「いやいや、謝らなくてもいいんだよ。いっぺんにたくさんのことを聞いたらくたびれるのはしょうがないし、 ぼんやりした頭で話を聞いても考えられないしね。 でも、数式のことや直線のこと、わかったところもあるんじゃないかな」
ノナ「わからない……わからないです $\NONA$」
僕「え」
ユーリ「ノナ、けっこーわかってたじゃん!」
ノナ「帰ってから、ごちゃごちゃして……ぜんぶわからなくなった $\NONAX$」
僕「ええと……」
僕は少なからず驚く。
前回来たときの手応えでは、ノナは、何かを理解したと思ったんだけどな。
それに『ぜんぶわからない』なんてありえないよって前回も言ったのに。
ノナ「ごめん……ごめんなさい $\NONAX$」
僕「いや、謝る必要は何もないよ」
謝る必要はないっていうのも、前回ノナに言ったと思う。
こういう口癖は、何回言っても直らないものなのかなあ……。
がんばって教えたのに、リセットされてしまったような……おっと、そんなことを最初から考えちゃだめだ、だめだ。
僕「たくさんのことをいっぺんに考えると、ごちゃごちゃするかもね。 『ぜんぶわからない』って言いたくなる……うん、今日も、やさしい数学の話をするから、そのまえに約束しておこうよ」
ノナ「ルール $\NONAQ$」
僕「このあいだノナちゃんと話していて思ったことなんだけど、簡単な約束を決めておいた方がいいよね。 まず、僕が数学の話をしたら、ノナちゃんには、できるだけ意味を考えて聞いてほしい。 もちろん、意味を考えてもわからないことだってあると思うけど、 そういうときは『ちょっと待って』って遠慮なく止めてほしい。 それから、すぐに『暗記しよう』と考えるんじゃなくて、できるだけ『意味を理解しよう』と考えてほしい。 暗記も大事だけど、意味を理解してほしいんだ。 時間はいくら掛かってもいいし、じっくり考えてもいいよ。むしろ、できるだけじっくり考えてほしい。 僕が何か聞いたときに、すぐに答えられなくてもいいからね。『ごめんなさい』なんて謝る必要はないから。 それから」
ユーリ「お兄ちゃん、お兄ちゃん、いきなり早口!」
うわっ、やってしまった。
ノナの表情はすでに硬直している。 丸眼鏡の奥、やや垂れた目尻には少し涙がにじんでいるようにも見える。
僕「ごめん! ほんとごめん!」
ノナ「……」
ユーリ「もー!」
ノナ「大丈夫……大丈夫です $\NONA$」
僕「ごめんね、ノナちゃん。いっぺんに言われても困るよね」
ノナは、こくんと頷く。
ユーリ「ノナ、今日のこと楽しみにしてたんだぞー! ぶちこわさないでよね、お兄ちゃん」
僕「楽しみにしてたの?」
ノナは、ハンカチを目に当てながら頷いた。
ノナ「おもしろい……おもしろかった $\NONA$」
僕「そんなにおもしろかったなんて、うれしいなあ」
ノナ「無限のキャンバスの話と、いつ移項してもいいっていう話 $\NONA$」
僕「へえ……そういえば、 $y = 2x$ という式を $y - 2x = 0$ に変形してもいいんだよという話をしたよね」
ノナは、もう一度、こくんと頷く。
ユーリ「ノナはよくわかってるもんね」
母「はい、お待たせしました。紅茶をどうぞ」
ノナ「ありがとう……ありがとうございます $\NONA$」
ユーリ「ありがとうございまーす」
僕「うん、じゃあ、お茶を飲んだら等式の話をしようか」
僕「ノナちゃんは、こういう等式を見たとき、どんなことを考える?」
$$ 3x - 1 = x + 3 $$
ユーリ「$x = 2$ だ!」
僕「オーケー。ユーリの即答はいいんだけど、それは先走りし過ぎだよ。 ノナちゃんは、 $3x - 1 = x + 3$ を見たとき、どんなことを考える?」
ノナ「わからない……わかりません $\NONAX$」
僕「なるほど。ノナちゃんは何もわからない?」
ノナ「$x = 2\NONAQ$」
僕「うん、この等式を満たすような $x$ は何ですかと聞かれたら、 $x = 2$ が答えになる。 それは間違いじゃないよ。でも、僕がいま聞いているのは、そういうことじゃないんだ。 もっとずっと単純な話」
ユーリ「お兄ちゃん、何を聞いてるのかわかんないよ」
僕「え……そう? $3x - 1 = x + 3$ という等式は、 《$3x - 1$ と $x + 3$ が等しい》ということを表しているよね」
ユーリ「そんなの、当たり前じゃん!」
僕「《当たり前のことから始める》のは大事だから」
ユーリ「当たり前のこと言ってもしょーがなくない?」
僕「そんなことないよ。ノナちゃんは、 $3x - 1 = x + 3$ という等式が、 《$3x - 1$ と $x + 3$ が等しい》ということを表しているのはわかる?」
ノナ「はい $\NONA$」
ノナは「はい」と言いつつ、ベレー帽からのぞいている前髪をいじり始めた。
ひとふさだけの銀髪メッシュ。
僕「ノナちゃんは、いま『はい』って返事したけど、何か気になることがあるの?」
ノナ「ごめん……ごめんなさい $\NONA$」
僕「いやいや、ノナちゃんは何も悪くないよ。僕も怒っているわけじゃない。 ノナちゃんが何か気になることがあるのかなって思ったから聞いただけだよ。 質問は質問。 怒っているわけじゃない」
ノナ「わからない……わかりません $\NONA$」
ユーリ「えー、まだ何にも始まってないじゃん」
僕「うん、ユーリはちょっと待って。 ノナちゃんは、 $3x - 1 = x + 3$ という等式は左辺の $3x - 1$ と右辺の $x + 3$ とが等しいことを表している……と言われると、 何か気になることがあるのかな。どんなことでも言っていいんだよ。 数学に関係があってもなくてもいい」
ノナ「$x$ ってなに……なになの $\NONAQ$」
僕「それは、とてもいい疑問! ノナちゃん、いいね!」
僕が大げさに言うと、ノナは僕を見た。困惑しつつも、ちょっぴりうれしそうだ。
僕「$3x - 1 = x + 3$ という等式をポンと出された。 それだけで言えるのは、左辺の $3x - 1$ と右辺の $x + 3$ とが等しいということだけ。 ノナちゃんが言うように、 $x$ が何を表しているのか、この式だけじゃわからない」
ユーリ「えー、 $x$ は数じゃないの?」
僕「ユーリも正しい。 たとえば教科書の中に、こういう $3x - 1 = x + 3$ という式が出てきたとするよね。 そのとき、何も言わなくても $x$ は何かの数を表していることが多いよ。 でも、 $x$ が何を表しているのかは、必ずその前後に書いてある。説明してある」
ユーリ「あー、お兄ちゃんがよく言うやつだ」
僕「何の話?」
ユーリ「お兄ちゃん、よく《問題文を読め》とか《定義にかえれ》とかゆーじゃん」
僕「ああ、そうだね。その話にも通じるよ。数学ではよく数式が出てくる。 数式が出てくるとつい『これは公式かな、公式だったら暗記しなくちゃ!』と思っちゃうよね」
僕が「暗記しなくちゃ!」というと、ノナはまた顔を上げた。
僕「でも、すぐに暗記に走るんじゃなくて、落ち着いてその前後に書いてある文章を読む必要がある。 そして、その数式が何を表しているのか、その意味を考える必要がある」
ユーリ「当たり前じゃん。だって、何を表しているかわかんなかったら、覚えてもしょーがないもん」
僕「ユーリのいう通り。そして、何を表しているかを考えるためには、 数式だけじゃなくて、まわりに書いてある文章もしっかり読む必要がある。 読んで、意味を考えるんだね。《数式は言葉》だから、何かを伝えようとしている」
ノナ「苦手……苦手です $\NONAX$」
僕が《数式は言葉》というスローガンを宣言すると、ノナは顔を曇らせた。
僕は、ドヤ顔になった自分が恥ずかしくなってしまった。
僕「苦手っていうのは、言葉が苦手ということ?」
ノナ「わからなくなるから $\NONA$」
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この記事は『数学ガールの秘密ノート/学ぶための対話』として書籍化されています。
書籍化にあたっては、加筆修正をたくさん行い、 練習問題や研究問題も追加しました。
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