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第218回 シーズン22 エピソード8
アキレスと亀(後編)

登場人物紹介

:数学が好きな高校生。

テトラちゃんの後輩。好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。

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最初の問題に立ち返る

ここは高校の図書室。いまは放課後。

僕は後輩のテトラちゃんと《アキレスと亀》についておしゃべりをしている。

第217回参照

テトラ「……ですから、 あたしが数学の問題や解答で文字がたくさん出てくるとパニックになるのは、

 この文字は何?!  あの文字は何?!  わからない文字がたくさん!

という気持ちになるからなんです」

「うん……それで?」

テトラ「そのパニックに対処する方法は、 《落ち着いて一つずつ考えること》だよと先輩に以前教えていただきました。 いっぺんに全部を理解しようとしないこと、と。 でも、そこに加えてもう一つ対処法に気付きました」

「何だろう」

テトラ「はい。《その文字は何のために出てきたのか》を考えることです。 数学の問題や解答を書いた人は、その文字を導入したかったわけですよね。 たとえば、さっきですと《段階》をはっきり表すために $n$ という文字を先輩は導入しました」

「……」

テトラ「そこです! 文字が出てくるのは、あたしをパニックにさせるためではなく、 書いた人が何かの意図をもっているからです。意図というか、目的というか」

「おお……」

テトラ「つまり、あたしは、 文字の向こうにいる書き手のことを考えるのが大事なんじゃないか……と思ったんです」

「確かに、それは大切な点の一つかもしれないね。 数学的な概念を整理して、まちがいなく、 正確に伝えようとするために文字を導入しているわけだから」

テトラ「あ、あたし……あたりまえのこと言ってますね」

「いやいや、大事なことだと思うよ。ありがとう、テトラちゃん」

テトラ「お、お恥ずかしいです」

情報を減らす

「そういえば、僕の説明よりもテトラちゃんの説明の方がずっとシンプルだったよね」

テトラ「《アキレスと亀》の説明のことですか?」

「そうだよ。 僕はアキレスを点 $A$ として、 亀を点 $B$ として両方を動かしたよね。 段階を $1,2,3,\ldots$ と追っていって」

テトラ「そうですね。あたしもそう考えましたが……」

「でもテトラちゃんはアキレスと亀のに着目していたよ。 アキレスが亀に追いつくということは、 位置の差が $0$ になること。 だから、二人の動きを追わなくても、差を追えばいいよね」

テトラ「ああ、このことですか……」

  • 段階 $1$ では、二点の位置の差は、 $1$ です。
  • 段階 $2$ では、二点の位置の差は、 $\frac12$ です。
  • 段階 $3$ では、二点の位置の差は、 $\frac14$ です。
  • ……
  • 段階 $n$ では、二点の位置の差は、 $\frac1{2^{n-1}}$ です。

「うん、それそれ。 だからテトラちゃんは、意識してかどうかわからないけど、 たくさんの情報でパニックにならないように情報を適切に減らすことを考えていたんだね」

テトラ「なるほどです。 いまの先輩の話で思い出したんですが、 あたしの友達が気になることを言ってました」

「《アキレスと亀》の話をテトラちゃんに聞いてきた友達?」

テトラ「そうです。 あたしは《アキレスと亀》を説明するときに、 先輩と同じように二点を使って説明しようとしました。二つの動く点で」

「まあ、数学的に説明しようと思ったらそうしたくなるよね」

テトラ「でも、友達はそこが気になるんだそうです。 どうして二つの点の話にしてしまうのかと。 あたしは『位置を正確に考えるため』とか、 『考えやすくするため』と説明したんですが、 友達は、何となく腑に落ちないという印象でした」

「うーん……」

テトラ「あたしの印象なんですが、 アキレスと亀のことを二点に変えたとたん、 このパラドックスの彩りといいましょうか、 物語的な魅力がなくなってしまった……と友達は感じたのかもしれません」

「ああ、そういう意味? 足の遅い亀が歩いていて、 それを足の速いアキレスが追いかけているシーンは魅力的だけど、 二点が動いているだけだとつまらないみたいな?」

テトラ「たぶん、そうなのかなと思いました。 あっ、でも、そんなふうに確かめたわけじゃありません。 それはあたしが勝手に考えたことです。 友達との話は二点を使って進んで行きましたから」

「僕は逆だなあ。 《アキレスと亀》のままだとその彩りみたいなところで、 何だかごまかされそうな気がするんだ。 無駄なものをそぎ落として、 数学的に意味のある情報だけにしぼりこんで、 絶対にまちがいない!と考えを進めたいから」

テトラ「そうですねえ……あたしも、先輩ほど強くはありませんが、 数学で考えるときに、文章で書かれたものから情報をそぎ落とす、 あるいは見つけ出すという気持ちは少しわかります」

「うん」

テトラ「小学校のとき……算数の文章題で、文章を読んで計算しますよね。 日常生活の《常識》を使って勝手なことを考えてはまずいんだな、 と感じたことがありました」

「なるほど。それはあるよね。 《兄弟二人が駅まで行くときに、弟を置いていく》 みたいな話だよね。先日もユーリが、半分ジョークだと思うんだけど、 『弟、置いていくなー!』とか憤っていたなあ(『数学ガールの秘密ノート/積分を見つめて』参照)」

テトラ「はい……ですから、 数学的に考えるための情報を文章から読み取るというのは大事だな、と思いました。 でも、その反面、先ほどの友達の気持ちもわかるんです」

「アキレスと亀の物語性について?」

テトラ「ええと、問題を数学的に考えるときに、 大事な情報までうっかりそぎ落としてしまってないのかな、 ということです」

「なるほどね。 もしかすると、問題を数学的に解いた後に『そもそも、どういう問題を考えたんだっけ』と思い返すことが必要になるのかもね。 最初の問題に立ち返るというか」

テトラ「最初の問題に立ち返る?」

「アキレスと亀を二つの点として考えることにするぞ! といったん決めて数学的に考えを進めるよね。 そして何か数学的な答えがわかった後で、ではもとの問題に戻って、 アキレスと亀について何がいえたのか、というのを確かめるという意味だよ」

テトラ「なるほど……」

「もともと数学では、《何を前提にしたら、何がいえるか》を考えることが多いからね」

テトラ「確かにそうですね……」

右足と左足

テトラ「《アキレスと亀》については、 あわてると変な方向に考えがいってしまいますが、 落ち着いて考えれば大丈夫になりました。 $n \to \infty$ の極限の問題でも、 簡単なものなら解けますし」

「おお、いいねえ!」

テトラ「か、簡単なものですよ! たとえば、 $$ n \to \infty \quad\REMTEXT{で}\quad \frac1n \to 0 $$ とか」

「だったら、そんなテトラちゃんにこんなクイズを出してみよう」

クイズ(右足と左足)

アキレスは数直線上で $1$ の位置にいて、 $0$ に向かって歩いていく。

最初は右足を踏み出して $\frac12$ の位置に行く。

次に左足を踏み出して $\frac14$ の位置に行く。

その次に右足を踏み出して $\frac18$ の位置に行く。

このように左右交互に足を踏み出して、 踏み出すたびに前回よりも半分の距離だけ進んで $0$ に向かっていく。

「アキレスが $0$ の位置に着いたとき、右足を踏み出して着いたか、 それとも左足を踏み出して着いたか」と聞かれたら、どう答えればいい?

テトラ「これは……難しいですね。 最初は $1$ のところにいて順番に、 $$ \begin{array}{ccccc} \frac12,& \frac14,& \frac18,& \frac1{16},& \ldots \end{array} $$ の位置に進んでいくわけですね」

「そうだね」

テトラ「一歩目は右足、二歩目は左足と交互に踏み出していって、 $0$ に着いたときの足はどちらかということは、 $$ \begin{array}{ccccc} \dfrac12 & \dfrac14 & \dfrac18 & \dfrac1{16} & \cdots & 0 \\ \updownarrow & \updownarrow & \updownarrow & \updownarrow & \cdots & \updownarrow \\ \REMTEXT{右} & \REMTEXT{左} & \REMTEXT{右} & \REMTEXT{左} & \cdots & \REMTEXT{《?》} \\ \end{array} $$ のように考えていったときに《?》は左右のどちらになるか……」

「……」

テトラ「直観的には、右でもないし、左でもないように思うんですが……」

「なるほど。じゃ、直観的ではなくて数学的には?」

テトラ「数学的には……何をいえばいいのか、わかりません。 でも、右にも左にも決まらないように思うんです。 $\frac12, \frac14, \frac18, \ldots$ と進んで、 無限の果てに $0$ があるわけですから、無限の先に右が来るか左が来るかなんて決まらない、と」

「うん、《無限の果て》や《無限の先》が出てきたときに直観を使うのは危険だよね」

テトラ「そうですね。あ、でも、さっきあたしは、 $n \to \infty$ のときに $\frac1n \to 0$ と言ってしまいました」

「テトラちゃんが言った『$n \to \infty$ のときに $\frac1n \to 0$』というのは、 その意味を正確にとらえていれば数学的にはまったく正しいよ」

テトラ「あたし、極限のこと、ちょっとはわかっていたと思ったんですが、 このクイズが説明できないということは、まったくわかっていないんですね……右とも左ともいえません」

「大丈夫。このクイズはそんなに難しくはないよ。 それにテトラちゃんの答えは正しい。 つまり、このクイズは右と答えても、左と答えてもまちがい。 なぜなら、このクイズでアキレスは $0$ に着かないから」

クイズの答え(右足と左足)

そもそも、アキレスは $0$ の位置に着かない。

したがって、 右足を踏み出して着いたとも、 左足を踏み出して着いたともいえない。

テトラ「結論は何となくわかります。 が、数学的にはどのようにいえば説明したことになるんでしょうか」

「《無限の果て》や《無限の先》を注意深く避けて説明しないとね。 $n$ は正の整数として、こんな二つの数列 $\LL a_n \RR$ と $\LL b_n\RR$ を考えよう」

$$ \begin{align*} a_n &= \frac{1}{2^n} \\[8pt] b_n &= (-1)^n \\ \end{align*} $$

テトラ「ははあ……なるほど。数列にしてしまうのですね。 $b_n$ の方は、 $-1,1,-1,1,\ldots$ のように $-1$ と $1$ が交互にくる数列ですね?」

「そうそう。 $a_n$ はアキレスの位置を表していて、 $b_n$ はどちらの足かを表している。 $-1$ だったら右足、 $1$ だったら左足」

$$ \begin{array}{c|ccccccccccc} n & 1 & 2 & 3 & 4 & \cdots & k & \cdots \\[8pt] \hline a_n & \dfrac12 & \dfrac14 & \dfrac18 & \dfrac1{16} & \cdots & \dfrac1{2^k} & \cdots \\[8pt] b_n & -1 & 1 & -1 & 1 & \cdots & (-1)^k & \cdots \\ \end{array} $$

テトラ「はい……よくわかります」

「これで、アキレスのことも右足左足のこともいったん忘れて考えることができる。 こんなふうに自問してみる。

   $a_n = 0$ を満たす正の整数 $n$ は存在するか?

どうしてこんな問いをするかというと……わかるよね?」

テトラ「はい。 $a_n = 0$ を満たすというのは、アキレスが $0$ の位置に着いたということですから。 なるほど、話がはっきりしました。 『$a_n = 0$ を満たす正の整数 $n$ は存在するか?』という問いに対しては、 『存在しません』という答えになります。 だって、どんな正の整数 $n$ に対しても、 $a_n = \frac1{2^n} > 0$ になりますから」

「そうだね。もし $a_n = 0$ になる正の整数 $n$ が存在したとしたなら、 $\frac{1}{2^n} = 0$ が成り立つことになってしまう。 両辺に $2^n$ を掛けると、 $1 = 0$ になってしまうから、そんな $n$ は存在しない。 だから、 $a_n = 0$ を満たす正の整数 $n$ は存在しない。 $n$ が決まらないんだから、 $b_n = (-1)^n$ の値が $-1$ になるか $1$ になるかという問いは意味がない」

テトラ「よくわかりました! ……い、いえ。 これはわかったんですが、逆に私がわかっていたと思っていたことがわからなくなりました」

「え?」

極限の意味

テトラ「あのですね。アキレスの右足左足クイズはもうわかりましたが、 先ほどあたしが言った《$n \to \infty$ のとき、 $\frac{1}{n} \to 0$》の方がわからなくなってしまいました。 というのは、 $n \to \infty$ のとき、 $\frac{1}{2^n} \to 0$ ですよね。 つまり、 $$ n \to \infty \quad\REMTEXT{で}\quad a_n \to 0 $$ がいえます。 でも、先ほど $a_n = 0$ になる正の整数 $n$ は存在しないという……」

「あれれ、そっちに引っかかってしまった? この数列 $\LL a_n \RR$ の場合、 次の二つは両方とも正しいよ」

  • (1)$a_n = 0$ を満たす正の整数 $n$ は存在しない。
  • (2)$n \to \infty$ のとき、 $a_n \to 0$ である。

テトラ「(1)の方はわかります。(2)の方は数列の極限……」

「うん、数列の極限だね。 一般に、数列の一般項 $a_n$ が極限値 $A$ に収束することは、 こんなふうに書ける」

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(2018年2月23日)

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki


『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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