登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
ユーリ:僕のいとこの中学生。 僕のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。 論理的な話は好きだが飽きっぽい。
僕は高校生。 ユーリといっしょに双倉図書館で開催されているイベント《いにしえの代数学》を巡っている。 会場にはパネルがたくさんあり、解説や数学の問題が書かれている。
いまは、 インドの数理天文学者ブラフマグプタのコーナーを回っていたところ(第443回参照)。
『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』
ブラフマグプタが書いた天文学書『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』 は数としてのゼロの概念が書かれた現存最古の書物であり、 世界中の数学史に大きな影響を与えた。 『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』はアラビアの数学者によって翻訳され、 アラビアを経由してヨーロッパに伝わり、 中世ヨーロッパの数学発展に貢献することになる。
ユーリ「ふむふむ、はいはい、そーですか……んじゃ、次のパネル?」
僕「ちゃんと読んだ?」
ユーリ「読んだ読んだ。ぶらふまぐぷた……が書いた本が、ヨーロッパに伝わった」
僕「大胆に省略したなあ」
ユーリ「へへ」
僕「ほめてないからね。ゼロの概念が書かれていたこと、 それから、アラビア経由でヨーロッパに伝わったことが大事だよね」
ユーリ「ふーん。いまだったらネットで公開するとすぐ世界中に伝えられるのにね」
僕「確かに。まあ、でも当時は7世紀だから、 ネットが登場するまで、あと千数百年くらい必要になるなあ。 7世紀というと、日本でいえば聖徳太子の時代くらいになるね」
ユーリ「ぐぬぬ」
僕「こっちのパネルには『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』の中身について書いてある」
『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』の数学
『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』全25章のうち、第12章「ガニタ」と第18章「クッタカ」が数学に関わり、 計算によって解を求める手順(アルゴリズム)が書かれている。
また、第19章、第20章、第21章にも数学的なトピックが含まれる。
ユーリ「何だか、ごちゃまぜって感じ」
僕「確かにいろんな話題が入っているけど、 当時の人にとっては、そうじゃなかったんじゃないかなあ。 計算、方程式、測量、韻律、三角法……」
ユーリ「いんりつ?」
僕「韻律というのは、言葉のリズムとか調子のことだね。ここではサンスクリット詩って書いてある」
ユーリ「ふーん。それも数学の話題なんだ」
正の数・負の数・ゼロの演算規則
ブラフマグプタは 『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』 で「正の数・負の数・ゼロの演算規則」を述べた。 これは、体系的に正の数・負の数・ゼロの演算規則を記述した現存最古のものと考えられている。 たとえば加法に関して言葉を補って表現すると次のようになる。
「二つの正の数の和は正の数であり、二つの負の数の和は負の数であり、 正の数と負の数の和は差であり、 絶対値が等しい正の数と負の数の和はゼロである。 負の数とゼロの和は負の数であり、正の数とゼロの和は正の数である。 二つのゼロの和はゼロである」
このようにして四則演算(和・差・積・商)および平方と平方根の規則が列挙されていく。
僕「来た来た。『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』には、ゼロを含んだ演算規則が書かれているんだね」
ユーリ「『二つの正の数の和は正の数であり……』って、 これ読むの、めんどい! ぜんっぜん頭に入ってこないんですけどー」
僕「現代だったら数式で書くところだけど、 当時は現代のような数式がなかったからぜんぶ言葉で書いたんだね。 現代風に書いたら……たとえば、 $a > b > 0$ として、こうなるかな」
$$ \begin{array}{ll} a + a > 0 & \textrm{二つの正の数の和は正の数である} \\ (-a) + (-a) < 0 & \textrm{二つの負の数の和は負の数である} \\ a + (-b) = a - b & \textrm{正の数と負の数の和は差である} \\ a + (-a) = 0 & \textrm{絶対値が等しい正の数と負の数の和はゼロである} \\ -a + 0 < 0 & \textrm{負の数とゼロの和は負の数である} \\ a + 0 > 0 & \textrm{正の数とゼロの和は正の数である} \\ 0 + 0 = 0 & \textrm{二つのゼロの和はゼロである} \\ \end{array} $$ユーリ「あー、言葉よりも数式の方がわかりやすいわー」
僕「それは数式の読み方をユーリが知ってるからだと思うよ」
ユーリ「てかさー、数式がない時代があったって知らなかった」
僕「当たり前のように使ってる数式も、誰かが発明するまではなかったんだね」
ゼロ割るゼロ
『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』で述べられている演算規則は現代のものとほとんど同じであるが、 「ゼロをゼロで割ったのはゼロである」と述べている。 これは現代では誤りである。
$$ 0 \div 0 = 0 \qquad \textrm{現代では誤り} $$
ユーリ「$0 \div 0 = 0$ って間違いだよね?」
僕「そうだね。 $0 \div 0$ の値は定まらないから、現代の数学だと未定義になる」
ゼロ分母
『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』で述べられている演算規則は現代のものとほとんど同じであるが、 「正の数または負の数をゼロで割ったものは分母がゼロの分数である」 と述べている(ゼロ分母)。 $a$ を正の数とすると次のようになる。 $$ \begin{align*} a \div 0 &= \frac{a}{0} \\ -a \div 0 &= \frac{-a}{0} \end{align*} $$ しかし、 ブラフマグプタは「ゼロ分母」が何を意味しているかについては述べない。 ゼロによる割り算の解釈を巡っては、試行錯誤の歴史が続く。
ユーリ「ゼロ分母?」
僕「さっきのは $0 \div 0$ だったけど、今度は $a > 0$ のときの $a \div 0$ や $-a \div 0$ がどうなるかという話だね。 少なくとも現代の数学のように $0$ で割ってはいけないと禁止はしてないけど、 でも、分母が $0$ になってる $\frac{a}{0}$ がどんな数なのかをいわないと、 何も主張してない」
ユーリ「$\frac{a}{0}$ は無限大にしちゃだめなの?」
僕「現代の数学だと無限大は通常は数として扱わない。だから $\frac{a}{0}$ を無限大にしてしまうと、 数を数で割ったものが数じゃなくなる。これは演算規則としてまずい。 だから、現代の数学ではゼロ割はできない」
ユーリ「ゼロで割るのって、難しいんだね」
僕「そうだね。 でも、ゼロを含む数の演算規則を書き表したこと自体がものすごいことだと思うよ。 誰かがそれをまとめてくれたからこそ、 不明確なところを他の人が研究できるようになる。 そうやって研究は進んでいくんだから」
ユーリ「数学って、最初からぜんぶ決まってて、すっかりできあがってる……ってわけじゃないんだ」
僕「誰かが見つけて、誰かが考えて、誰かが書き残して、誰かが整理して……現代の数学になっているんだね」
ブラフマグプタと二次方程式の解法
ブラフマグプタは二次方程式の解法を記述している。 言葉を補って日本語にすると次のようになる。
「《定数》に《平方の係数》の $4$ 倍を掛け、 《$1$ 次の係数》の平方に加えよ。 その数の平方根から《$1$ 次の係数》だけ小さい数を、 《平方の係数》の $2$ 倍で割ると、《未知数》を得る。」
(カッツ『数学の歴史』から引用、一部修正あり)
この解法は二次方程式 $Ax^2 + Bx = C$ を解く。 ただし、ブラフマグプタは二次方程式の解のうち、片方のみに言及している。
ユーリ「おおお! この言葉をたどっていけば二次方程式の解の公式になる?」
僕「そうみたいだね。やってみよう!」
ユーリ「……あれ? ユーリが覚えてる解の公式と違う」
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