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登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
ユーリ:僕のいとこの中学生。 僕のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。 論理的な話は好きだが飽きっぽい。
ノナ:ユーリの同級生。 ベレー帽をかぶってて、丸い眼鏡を掛けていて、ひとふさだけの銀髪メッシュ。 数学は苦手だけど、興味を持ってる中学生。
僕「……」
ユーリ「……」
ノナ「$\NONA$」
僕は高校生。今日は土曜日。ここは僕の家のリビング。
僕と、ユーリと、ノナの三人が、 いっしょにテーブルで勉強をしている。
勉強をしている……はずなんだけどな。
さっきから、リビングには沈黙の時間が流れている。
栗色の髪をしたユーリと、ベレー帽をかぶったノナの二人は隣り合い、 テーブルで僕の向かいに座っている。
僕の前には一枚の紙が置かれていて、 その紙には一つの式が書かれている。
さっき、ノナが書いてくれた式。
それは、こんな式だ。
ノナが書いた式
$$ x + y $$
僕「ええと、これは、 $x + y$ だね——それで?」
ノナ「どうして……どうしてですか $\NONAQ$」
今回も難易度が高いスタートだな、と僕は考える。
ノナはユーリの同級生。
少し前、ひょんな巡り合わせから、高校生の僕は、中学生のノナに数学を教えることになった。 それは何ともいえない不思議な体験でもあった。
ノナはあまり数学が得意じゃない。 いやいや、数学が得意じゃないというのは短絡的すぎる表現だ。 得意じゃないのは確かにそうかもしれないけれど、 それよりも大事なのは、 彼女はまだ「学ぶ」ことや「理解する」ことに慣れていないという点だ。
僕は、そんなふうに思っている。
僕「……」
ノナ「$\NONA$」
うん、そうだ。ノナはまだ「学ぶ」ことや「理解する」ことに慣れていない。それは確かにそう。
だから僕は、彼女と話しながら不思議な感覚に襲われることがよくあった。 ノナと話していると、まるで僕の方が教えられている気持ちになる。 それは、僕が学ぶことや理解することについて、 ノナに対して説明する事態におちいるからだ。
彼女は中学生だし、 ノナが直面している数学そのものは難しくない。 でも、彼女に対して数学を教えることは僕にとって大きなチャレンジになる。
ノナに図形の証明を教えたときのことも思い出した。 ノナとユーリと僕の三人は、 三角形の合同をめぐってさまざまな《数学トーク》をすることができた。 そこでも僕は貴重な体験をした。 単に三角形の合同について考えるだけではなく、 証明というものについて考える機会となったからだ。 もっと正直にいうなら、僕自身の……いや、それを思い出すのはやめておこう。
まあ、これまでの話はいいんだ。
今回、ノナが持ち込んできたもの——この $x + y$ という式——はいったい何だろうか。
ユーリ「はいっ、お兄ちゃん! 24秒過ぎたよ!」
僕「24秒って何の時間?!」
ユーリ「ショットクロック。バスケの24秒ルール、知らないのかにゃ? バスケだと、24秒以内にシュート打たないといけないんだよ」
いとこのユーリは、ドヤ顔でそう言った。
彼女は近所に住んでいて、小さい頃からいっしょに遊んでいるから僕のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。
ユーリは思っていることをポンポン言うから、彼女に数学を教えるのは楽といえば楽だ。
僕「いつから僕たちはバスケをしていたんだろう」
ユーリ「無言時間、長すぎるんだもん」
僕「いろいろ考えていたんだよ」
ユーリ「無言時間が長くて、ノナが困ってるじゃん」
ノナ「どうして……どうしてですか $\NONAQ$」
ベレー帽の前から、ひとふさだけ顔をのぞかせている銀髪に指を触れながら、ノナは尋ねた。
僕「ああ、ごめんね、ノナちゃん。 ええと、 ノナちゃんは、この $x + y$ という式がよくわからないということ?」
ノナはこくん、と頷く。その拍子に少しズレた丸い眼鏡を、彼女は両手で直す。
僕「うーん……」
これじゃまるでノナが村木先生になったみたいだ、と僕は思った。
思わせぶりな問い掛け、 謎めいた数式、 意味ありげな図形。 高校の村木先生は《カード》を僕たちに渡してチャレンジしてくる。
しかしもちろん、ノナは思わせぶりをしているわけじゃないし、 僕に謎かけをしているわけでもない。まったく違う。
僕は改めてノナを見る。
ノナは極めて真剣に、でもやや不安げに、僕を見ている。
困ったな。
$x + y$ だけを提示されて「どうして」と聞かれても正直困る。
僕はこれまでの《数学トーク》を通じてノナの語り、 どこかふわふわした話し方に慣れてきたつもりだ。 でも、さすがに $x + y$ だけじゃ何もわからない。
僕「ノナちゃんは、 $x + y$ を使った公式を知りたいということかな?」
ノナ「そうじゃなくて……そうじゃありません $\NONAX$」
「そうじゃなかったら、いったい $x + y$ の何が知りたいのか?」 とダイレクトに尋ねたくなる気持ちを抑えつつ、 僕は問い掛ける表現を吟味する。
もしも「何を知りたいの?」と尋ねてノナがパパッと答えられるくらいなら、 最初からきちんと質問してくるだろう。 でも「どうして」としか言えないのは理由があるはずだ。
そんなところだろう。
そうだ。この $x + y$ が出てきた経緯、ユーリなら知っているかもしれないな。
僕は、助け船を求めてユーリに目を移す。 しかし、ユーリは軽く肩をすくめてこんなことを言った。
ユーリ「ノナが何を聞きたいか、ユーリも知らないんだよー。 でも、数学得意なお兄ちゃんに聞きたいことがあるんだって!」
僕「そうなんだ……」
ノナ「やっぱりダメ……ダメですか $\NONAQ$」
僕「いやいや、ノナちゃんが疑問を持つことも、 それから僕に聞きたいことがあるというのも、ぜんぜんダメじゃないよ。 まったく違う。何でも聞いていいんだ。数学のことだよね」
ノナ「理由は大切だから $\NONA$」
僕「あのね、ノナちゃん。僕がうなってばかりで何も答えられないのは、 ノナちゃんが何を質問しているのか、僕がわかっていないからなんだ」
首をかしげるノナ。
僕「僕はノナちゃんに数学を楽しんでほしいと思っている。 だから、数学のどんな質問でも喜んで答えるし、 答えられないときにはいっしょに考えたり、調べたりしたいと思っている」
頷くノナ。
僕「ノナちゃんがさっき言った通り、理由は大切だね。 『どうしてだろう』と疑問に思って理由を考えることはとても大切。 自分で理由を考えるのもいいし、考えてもわからないときに先生に尋ねるのも大切。 僕に尋ねてくれるのもうれしいよ。 でも、ノナちゃんが、そもそも何に対してどんな疑問を持っているのかがわからないと、 僕も答えようがないし、考えようがない。 僕がうんうんうなっているのは、ノナちゃんが何を知りたいと思っているのかを一生懸命想像していたからなんだ」
ノナ「これ……これです $\NONA$」
ノナは、 $x + y$ を指さす。
僕「ノナちゃんは、 $x + y$ の何が知りたいの?」
結局、僕はダイレクトに尋ねることになった。
すれ違い続ける対話に耐えられなくなったのだ。
ノナ「どうしてかな……と思いました $\NONA$」
僕「それは $x + y$ の意味を知りたいということ?」
ノナ「違う……違います $\NONA$」
僕「うーん……」
ノナ「どうして $x + y$ はそのままでいいの……いいんですか $\NONAQ$」
僕「おっ、そこをもっと詳しく聞きたいな。そのままって何のことだろう」
ノナ「$x + y$ は……計算できません $\NONA$」
僕「計算か——じゃあ、ちょっとノナちゃんの疑問のまわりをぐるっと一回り散歩してみることにしようか。 僕は式の計算について、ゆっくり話していくから聞いてくれる? ノナちゃんが知っていることもたくさん出てくると思うけど、復習だと思って聞いてくれるとうれしいな。 話しているうちにノナちゃんの疑問のそばを通りかかるかもしれない。 そのときに声を掛けてくれれば、僕たちは同じ景色を見ることができるはず。 僕の言いたいことは伝わったかな?」
ノナ「大丈夫……大丈夫です $\NONAHEART$」
ユーリ「お兄ちゃん、ユーリに話すときも、そんなふーに優しく話してほしいもんじゃのう」
僕「ユーリに話すときも、優しく話してるよね」
ユーリ「そーゆーことにしといてあげよう!」
こんなふうにして、僕とユーリとノナの三人の散歩——式の計算をめぐる《数学トーク》——が始まった。
僕「それじゃ、まず文字の話をするね。ノナちゃんが書いてくれた $x + y$ にも出てきたけれど、 数学では $x$ や $y$ のような文字を使うことがある。 これはどうしてかというと……」
(第402回へ続く)【書籍紹介】
「何がわからないのか……わかりません $\NONA$」 学ぶことに慣れていないノナちゃんが初登場!
「証明……わかりません $\NONA$」 ノナちゃんが図形の証明に挑戦!
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結城浩のメンバーシップで参加 結城浩のpixivFANBOXで参加(第401回終わり)
(2023年9月8日)