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第383回 シーズン39 エピソード3
《理解の最前線》の見つけ方(前編)

登場人物紹介

:数学が好きな高校生。

テトラちゃんの後輩。 好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。言葉が大好き。

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図書室にて

次の日の放課後。

が図書室に行くと、テトラちゃんがいつもの席に座って書き物をしていた。

昨日のこと・・・・・があるので、は彼女に声を掛けたものかどうか迷う(第381回参照)。

と、テトラちゃんが笑顔で手を振ってきたので、は安心して彼女の席に向かう。

テトラ「先輩、いらしてたんですね。昨日はアドバイスをありがとうございました(第382回参照)」

「いや、こちらこそ……ところでそれは、村木先生の《カード》の問題?」

の問いに、テトラちゃんは自分のノートに目を落とす。

テトラ「あっ、はい。村木先生の《カード》の問題を考えているんです。 でも、問題じゃないですね。当たり前だけど、当たり前じゃない。不思議な内容です」

「どういうこと?」

テトラ「《カード》に書かれていた式は、これです」

テトラちゃんは「これです」と言って、ノートを見せてくれた。

テトラちゃんのノート

テトラちゃんのノートから

  • $a(x + y) = ax + ay$
  • $(a + b)x = ax + bx$
  • $(ab)x = a(bx)$
  • $1x = x$

「これは式の計算かな? 分配法則と結合法則だね」

テトラ「はい……」

「$a(x + y)$ は $a$ に $x + y$ を掛けるけど、 それは、 $a$ を $x$ と $y$ のそれぞれに分配して掛けてから足したものと等しくなる。分配法則だよね。 $a(x + y)$ のカッコは外すことができる」

$$ a(x + y) = ax + ay $$

テトラ「ですよね……」

「$(a + b)x$ は逆方向だけど同じく分配法則だね。 $a + b$ に $x$ を掛けるのは、 $a$ と $b$ のそれぞれに $x$ を掛けてから足したものに等しい」

$$ (a + b)x = ax + bx $$

テトラ「はい、そうですね……」

「$(ab)x = a(bx)$ は乗算の結合法則だね。 $a,b,x$ の掛け算では、 $ab$ を先に計算してもいいし、 $bx$ を先に計算してもいい。 どっちを先に計算しても等しいから、 $abx$ と書いたってかまわない。 だから結合法則もカッコを外せる法則といえる。式の計算の基本」

$$ (ab)x = a(bx) $$

テトラ「はい……」

「$1x = x$ というのはもっと基本的な式の書き方の話で、係数の $1$ は省略できる」

$$ 1x = x $$

テトラ「……」

「これって、村木先生の《カード》にしては珍しいなあ。 謎めいた数式でもないし、数学の問題というわけでもないし、 意味ありげな式が書いてあるわけでもない。 僕たちがよく知ってる基本的な法則が書かれているだけっていうのは珍しいよね。 村木先生はテトラちゃんにこれをくれたんだよね——数式の基本練習をしましょうってこと?」

が問うと、テトラちゃんはちょっとためらってから打ち明けるように言い出した。

テトラ「あの……先輩は、どうしてこれだけでベクトルが定義できるか、わかりますか? あたしにはどうしてもわからないんです」

「えっ、ベクトル?」

テトラ「はい、ベクトルです」

「ちょっと待って。どうして突然ベクトルが出てくるの?」

テトラ「あっ、え、ええとですね。 実をいいますと、この式は、村木先生の《カード》からあたしが抜き出しました。 要点をまとめるつもりで、あたしがノートに書き出したんです。 まぎらわしくてすみません」

「ああ、もっと他の式が書かれているってこと? でも、ベクトルって……もとの《カード》の方を見たいけど、いまはないの?」

テトラ「え、いえ……」

「ああ、テトラちゃんは自分で考えたいってことなんだね?」

昨日のテトラちゃんの話にも出てきた、他人に頼らないで自分で考えたい——そういうことなのかな(第382回参照)。

テトラ「ええとですね……はい、自分で考えるつもりでがんばってはいたんですが、 やっぱり、あたしには難しすぎるみたいです。 ちょっとお待ちください。いま《カード》を出します……」

村木先生の《カード》

村木先生の《カード》

  • $K$ を、たいとします。
  • $V$ を、加法群(群演算を加法と考え、二項演算子を $+$ で表したアーベル群)とします。
  • $K\times V$ から $V$ への写像 $(a,x) \mapsto ax$ が存在して、
  • 以下の(1)から(4)のすべてが満たされているとします。

(1)$K$ の任意のげん $a$ と、 $V$ の任意の元 $x,y$ に対して、$$a(x + y) = ax + ay$$が成り立つ。

(2)$K$ の任意の元 $a,b$ と、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$(a + b)x = ax + bx$$が成り立つ。

(3)$K$ の任意の元 $a,b$ と、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$(ab)x = a(bx)$$が成り立つ。

(4)$K$ の単位元を $1$ とすると、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$1x = x$$が成り立つ。

  • このとき、 $V$ を「$K$ 上のベクトル空間」といいます。
  • $V$ の元を「ベクトル」といいます。
  • $K$ の元を「スカラー」といいます。
  • 写像 $(a,x) \mapsto ax$ を「スカラー倍」といいます。
  • $V$ の元 $ax$ を「$x$ の $a$ 倍」といいます。

松坂和夫『代数系入門』を参考にしています。

「あっ、こんなに長い説明が書かれている《カード》だったんだね!」

テトラ「はい」

「そうか! 僕はてっきり、さっきテトラちゃんが書いてくれた四つの式だけが書かれた《カード》が来たんだと勘違いしてた」

テトラ「でも、あたしが抜き出したのは《カード》の(1)から(4)までの式なんです。 これが重要だと思ったからです……あたし、何かまちがってました?」

「いやもちろん、その式は大事だし、それらの式と《お友達》になる必要はあるよ。 でも、それ以上に、この《カード》全体を読む必要があるけど。 うーん……それで、テトラちゃんはこの《カード》をもらって、どうしたの?」

テトラ「あたしは、この《カード》を読んでいって、 四つの式が大事だと思いました。そして、下の方に書いてある、

  $V$ の元を「ベクトル」といいます。

というところで、すごくびっくりしたんです。 あたしはベクトルのことを少し知ってます。矢印が出てきて、足したり引いたりできます。それから、 平面上の点や図形を表したりするものです……よね?」

「うん、まあね。それで?」

テトラ「でもこの《カード》には、 $V$ の元をベクトルという——と書いてあります。まるでベクトルを定義しているみたいな表現ですよね。 それであたしは大混乱しました。 だって、この《カード》を読んでも、ぜんぜん矢印が出てこないからですっ!」

「いや、この《カード》はベクトルを定義していると思うよ」

テトラ「えっ!」

「その、ベクトルの話に入る前に聞きたいんだけど、 テトラちゃんがこの《カード》をもらったとき、村木先生は何て言ってたの?」

テトラ「ええと……」

「テトラちゃんが自由に考えてみなさいって言ってた?」

テトラ「あのですね……」

「この《カード》をテトラちゃんにいきなり自由に考えなさいっていうのは、 ちょっと無茶ぶりすぎると思ったんだけど」

テトラちゃんは、迷うように目をきょろきょろさせてから、ゆっくり答えた。

テトラちゃんの告白

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(2023年2月17日)

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki


『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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