登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
テトラちゃん:僕の後輩。 好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。言葉が大好き。
ミルカさん:数学が好きな高校生。 僕のクラスメート。長い黒髪の《饒舌才媛》。
いまは放課後。
僕が図書室に行くと、ミルカさんとテトラちゃんが話し合っていた。
話し合っていたというか、テトラちゃんが両手をぶんぶん振りながら声を上げていた。
テトラ「やはり、あたし、『《熱》とは何か?』がわかってません!」
ミルカ「ふむ」
僕「テトラちゃんは今日も元気だね」
テトラ「先輩! あ、あたしの声、大きすぎました?」
僕「いや、それほどでもないと思うよ。いまのところは瑞谷先生が動く気配もないからね。何の話をしてたの?」
テトラ「《熱》とは何か? という話です。ミルカさんとお話ししていて、 あたしは混乱してしまったのです!」
ミルカ「その表現はやや心外だな」
テトラ「あ、いえいえ。ミルカさんを責めているんじゃありません。 あたしは自分が混乱していることに気付いたんです。 《熱》とは何か?……という問いに答えられないので」
僕「熱っていうのは、一言でいえば……」
テトラ「ス、ストップです、先輩! いまちょうど、 ミルカさんの《問いかけ》に答えながら、 自分がどこに混乱しているのかを確かめていたので……」
僕「なるほど。なかなか微妙な議論をしていたんだね。 ミルカさん、そもそも、どういう話?」
ミルカ「テトラが説明する」
テトラ「はい……お聞きください」
テトラちゃんは急に声をひそめて話し出す。
僕は、彼女の話に耳をすませる。
テトラ「先日、気体分子運動論の計算をしましたよね」
僕「そうだね」
ミルカ「私はエィエィに引きずられて不在だった」
テトラ「はい。そのときは、こんな計算をしました」
気体分子運動論での計算(第346回参照)
僕「うんうん、そうだったね」
テトラ「その話をしてたんですが……ミルカさんからの一言で、あたしはわからなくなってしまいました」
僕「へえ……ミルカさんは何て言ったの?」
僕が水を向けると、ミルカさんは人差し指を立てて言った。
ミルカ「『《熱》はどこに出てくる?』」
テトラ「そうなんです。気体分子運動論にしろ、ボイル=シャルルの法則にしろ、たくさんの物理量が出てきましたよね。 気体分子運動論では《速度》《運動量》《力積》《運動エネルギー》などが出てきましたし、 ボイル=シャルルの法則では《圧力》《体積》《物質量》《温度》などが出てきました。 でも、肝心かなめの《熱》というものが、まったく、ぜんぜん、どこにも出てきていないことに改めて気付かされました。 《熱》について、何も考えないまま議論をしていましたよね。 それにショックを受けたんです」
僕「なるほどなあ……そこから『《熱》とは何か?』につながるということなんだね」
テトラ「はい……」
僕「それでずっと、ミルカさんと議論をしていたんだ」
テトラ「議論といいますか……あたしがもたもたしているところに、 ミルカさんが《熱》について、いろんな《問いかけ》をしてくださったんです。 あたしが考えを進めるためのヒントとして」
ミルカ「たとえば、こんな問いが立てられる。『《熱》は物質の一種だろうか?』」
テトラ「あたしは、違うと思いました。熱は物質の一種じゃありません。 たとえば《熱》を加えたからといって重くなるわけじゃないですよね。 重りを乗せるみたいに重くならないので、熱は物質じゃない……と思いました」
僕「なるほど」
ミルカ「こんな問いも立てられる。『熱は物質の中に含まれている何かだろうか?』」
僕「物質の中に含まれている何か?」
ミルカ「たとえば電気は、電子(でんし)を使って説明する。 物質を構成している原子の中にある電子が、電気の単位となる電荷(でんか)を持つものとして考える。 それと同じように熱は、 熱荷(ねつか)を持つ熱子(ねつし)と呼ばれる小さなものが物質の中に潜んでいるとして考えるのか?」
テトラ「あたしは、熱荷や熱子なんてものはないと思いました」
僕「うんうん」
テトラ「でも、そこであたしは『どうして熱荷や熱子が存在しないと思うんだろう?』と、自分の考えの根拠を探ってみました。 自分がそのように考える理由・証拠・根拠です! すると……その根拠が見つからないことに気付きました。 自分で根拠が答えられないんです」
僕「ああ……」
テトラ「つまりですね、熱荷なんて習ってないから存在しない。 熱子なんて聞いたことがないから存在しない……あたしの理解は、 そんな状態になっていることに気付いたんですよ!」
僕「歴史的な熱素説(ねつそせつ)への反論を試みていたわけだね」
テトラ「熱素説?」
ミルカ「わざわざ熱素説という検索キーワードを避けて問いを出していたのだが、君がいま台無しにしてしまったな」
ミルカさんが低い声で言った。
僕「おっと! そういうことだったのか。ごめん」
テトラ「もしかして、あたしの疑問『《熱》とは何か?』は歴史的な意味があるものなんでしょうか」
ミルカ「もちろん。『《熱》とは何か?』を考えることはできる。しかし、歴史なしで正しく答えることは難しい」
僕「歴史?」
ミルカ「なぜなら『《熱》とは何か?』という問いに答えるためには、多様な実験との整合性が求められるからだ」
僕「ランフォードの砲身を削る実験のように?」
ミルカ「そうだ。 18世紀の終わりにランフォードはミュンヘンで大砲の砲身を作る作業を監督していた。 穿孔機を使って真鍮の砲身から真鍮片を切り出すのだが、その作業で砲身が多量の《熱》を発生することにランフォードは気がついた。 そして、そのときに生じる《熱》は無尽蔵のように見える……と観察した。 この観察から、《熱》が何らかの形で物質の中に蓄えられているとは考えにくいといえる」
僕「無尽蔵かどうかはそれだけじゃわからないけどね」
ミルカ「そしてもちろん、19世紀のジュールの実験がある。水の中で羽根車を回し、それによって《熱》を測定した」
テトラ「ジュールは……単位のジュール?」
ミルカ「物理学者のジュールの名前に因んで、ジュール(J)の名前がつけられた」
テトラ「……」
ミルカ「多様な実験を行い、結果を解釈するための議論が重ねられ、《熱》をどのように理解すべきかを人類は学んできた。それはそのまま科学の歩みだ」
テトラ「そ、それで……あたしの理解するところですと、熱は物質ではないし、物質の中に含まれている何かでもないと思います。 でも、《熱》とは《これ》であると言い切ることはできません」
僕「……」
テトラ「ああ、でも、《熱》は《温かさ》と関係しているようには思います」
ミルカ「確かに《熱》は《温かさ》と関係している。それに対しては、こういう問いがある。『《熱》と《温度》は同じものか?』」
テトラ「あっ、なるほど……そうですね、《温かさ》と直接関係しているのは《温度》のようです。部屋の《温度》が高いとき『温かい』といいますし」
僕「物体に《熱》を加えると《温度》は上がるけれど、同じだけの《熱》を加えても《温度》が上がらない物体もあるよね」
テトラ「そうですね。《熱》は《温度》を上げるための何か?」
僕「寒いときに両手を擦り合わせると《温度》が上がって温かくなるけれど、あのときは《熱》を加えているわけじゃないよね」
テトラ「ああ、確かに……あたし、《熱》のこと、まったくわかっていないのかもしれません……」
ミルカ「日常的な表現や経験で考えるのは大事だが、そろそろ整理しよう」
テトラ「はい」
ミルカ「《熱》について、熱力学第一法則を使って整理する」
ミルカ「熱力学第一法則はこれだ。ピストンに入った気体を使って具体的に話そう」
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