登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
テトラちゃん:僕の後輩。好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。
ミルカさん:数学が好きな高校生。僕のクラスメート。長い黒髪の《饒舌才媛》。
瑞谷先生:司書の先生。定時になると下校時間を宣言する。
僕とテトラちゃんがおしゃべりをしているところに、ミルカさんがやってきた。
ミルカ「《カード》?」
僕「うん。テトラちゃんがもらってきた《カード》は線型性の話だったよ。こんなカード」
テトラちゃんがもらった《カード》
ミルカ「……」
僕「僕たちは線型性のことや行列のことを考えていて……あれ?」
ミルカさんは、指先で《カード》をひらひらさせている。
テトラ「ミルカさんも《カード》を持っていらっしゃいますね」
ミルカ「私も村木先生からもらってきた。いつものように思わせぶりな式が書いてあったよ」
僕「どんな式?」
ミルカ「こんな式」
ミルカさんは、手にしていた《カード》を僕たちの前に置く。
僕とテトラちゃんはその《カード》を見て、絶句した。
何しろ、真っ黒な《カード》だったからだ。
ミルカさんがもらった《カード》
僕「……」
テトラ「……」
ミルカ「どうした?」
僕「黒いね」
テトラ「黒いですね」
ミルカ「色はどうでもいい。数式に注目しよう」
僕「並べてみようよ」
テトラ「なるほど? これは、あたしの $f$ と $v$ を入れ換えたんですね。 そうするとちょうどミルカさんの《カード》に書かれた数式になります」
僕「$f(v_1 + v_2)$ の代わりに $v(f_1 + f_2)$ になっているし、 他のすべてがそうなっているね。うん。機械的に $f$ と $v$ を交換しているということか」
ミルカ「そしてもちろん、 この思わせぶりな《カード》から何かおもしろいことはいえるか、 というのがメタな問題設定ということになる」
テトラ「文字の入れ換えにどんな意味があるんでしょう……」
僕「うーん……」
テトラ「……もしかして、こうでしょうか。 あたしたちは $f$ という文字を見ると関数だと思い込んでしまいます。 そして $a$ や $b$ という文字は定数で、 $x$ や $y$ は変数だと考えます。 $v$ はベクトルでしょうか……ともかく、 文字に対する固定観念を捨てることも大切だという教育的指導のための《カード》とか。 ですから……いや、ええと……」
ミルカ「Go ahead」
テトラ「ですから、ミルカさんの《カード》の数式をこんなふうに読めると思ったんです。 慣れなくて、とても気持ち悪いんですが……」
$v$ は、定義域と終域のどちらも実数全体の集合である関数とする。
そして、この関数 $v$ は、 任意の実数 $a,f,f_1,f_2$ に対して、 以下の二つの等式を満たすものとする。
$$ \left\{\begin{array}{llll} v(f_1 + f_2) &= v(f_1) + v(f_2) \\ v(af) &= av(f) \\ \end{array}\right. $$
このとき、関数 $v$ は線型性を持つという。
ミルカ「定義域と終域が実数全体の集合というのは?」
テトラ「あ、たとえば、ということです」
僕「さっき、僕が同じようなことを言ってたんだよ」
ミルカ「テトラの意見は、 $f,v$ の文字の使い方をわざと逆にすることで、 文字の慣用的な使い方を意識させ、注意を喚起していると。……君の意見は?」
僕「僕も最初テトラちゃんと同じように考えたんだ。 $v$ が関数で $f$ を変数とすると、 $v(f)$ という書き方ができるって。 でもそれだと、テトラちゃんの白い《カード》と、 ミルカさんの黒い《カード》は実質的に同じ主張になってしまう。 単に文字が違うだけで。それはちょっと……つまらないかな」
ミルカ「Go on」
僕「うん。僕が考えたのは《関数表記の新提案》ということだよ」
テトラ「関数表記の新提案?!」
僕「僕たちは $x$ についての関数 $f$ を $f(x)$ と書くけど、 それは約束に過ぎないよね。誤解がなければ別の書き方をしてもいいはず。 たとえば以前何かの本で、 $f(x)$ じゃなくて $f.x$ という書き方をしているのを見たことがある。 すごく読みにくかったけど」
テトラ「はあ……」
僕「だからね、 $v(f)$ という数式でやっぱり関数は $f$ で変数を $v$ にして遊んでいるのかもしれないな、 と思ったんだ」
テトラ「なるほどです。入れかわっているのは $f$ と $v$ の文字の意味ではなく、文字の位置だったということですね! なるほどです!」
僕「もちろん、それは僕が勝手に考えたことなんだけど……ミルカさんはどういう意見?」
ミルカ「私の意見は、半分はテトラの意見に、 そして半分は君の意見に似ている」
僕「どういうこと?」
ミルカ「その前に、 $f(\heartsuit)$ という表記には二つの場合があることに注意する必要がある。 $f(\heartsuit)$ と書くことで《$f$ は $\heartsuit$ に関する関数》 ことを表す場合と、 $f(\heartsuit)$ と書くことで《関数 $f$ に値 $\heartsuit$ を与えたときの関数値》 を表す場合と」
僕「ああ、そうだね。 関数 $f(x)$ のように書くことがあるけど、 $f(123)$ のように書いたら、 関数ではなく関数の値を表すという意味だね」
テトラ「あっ! 確かにそうですね。 関数というブラックボックスを指しているのか、 そのブラックボックスに具体的な入力を与えたときの出力を指しているのか……不覚でした」
僕「それはいいんだけど、 黒いミルカさんの《カード》の解釈は?」
ミルカ「……」
僕「ねえ」
ミルカ「『黒いミルカさんの《カード》の解釈』 という表現の曖昧さについて」
僕「……ごめん。ミルカさんは黒くないよ。 黒い《カード》に関するミルカさんの解釈は?」
ミルカ「数式はこうなっている」
$$ \left\{\begin{array}{llll} v(f_1 + f_2) &= v(f_1) + v(f_2) \\[2pt] v(af) &= av(f) \\ \end{array}\right. $$ミルカ「先ほどのテトラに合わせて実数に限定した話をしよう。 私は、 $f,f_1,f_2$ は関数を表していて、 $a,v$ は実数を表していると考えた」
僕「なるほど、僕と同じだね」
ミルカ「そして、 $v(f_1)$ という表記を、 《関数 $f_1$ に実数 $v$ を与えたときの関数値》を表していると考えた」
僕「うん、それも僕と同じだ」
テトラ「関数表記の新提案?」
ミルカ「そして次に $v(f_1 + f_2)$ を見て興味深いことに気づいた。 君の解釈では、 $v(f_1 + f_2)$ はどうなる?」
僕「さっきと同じだよ。 通常の関数表記でいうなら、 $(f_1+f_2)(v)$ とでもなるかな」
ミルカ「いま君が書いた $f_1 + f_2$ という式の意味は?」
僕「関数だね。関数の……あれ? 関数の和、だと思ったんだけど」
ミルカ「私もそう思う。 では、関数の和とは何かという問題になるわけだ」
僕「……」
テトラ「和を求めるのも演算といいますか、関数ですよね。 二つの要素をブラックボックスに入力すると、一つの要素が出力される」
ミルカ「そのように期待したい。 $f_1 + f_2$ というのは《関数と関数の和と呼べる関数》といいたくなる」
僕「……」
ミルカ「そこまで考えてきて私は、 この黒い《カード》は双対空間(そうついくうかん)を示唆しているといえる、と思った。 村木先生のことだから、もう一つの《カード》はすでに配られているはず。 そして図書室に来てみると案の定。 白いテトラの《カード》があったというわけだ」
僕「(白いテトラ?)」
テトラ「ちょ、ちょっとお待ちください。 双対空間とはなんでしょうか?」
ミルカ「ある線型空間 $V$ 上の線型写像全体からなる集合 $F$ を考えると、 $F$ 自身を線型空間と見なすことができる。 そのときの $F$ を $V$ の双対空間と呼ぶ。 $F$ とは書かずに $V^{*}$ と書くことが多いけれど」
テトラ「ごめんなさいっ! さっぱりわかりませんっ!!」
僕「線型写像全体からなる集合を線型空間と見なす?」
ミルカ「順序立てて説明しよう。難しい話ではない。ただ、すべてが裏返しになるだけだ。インサイド・アウト」
ミルカ「まず最初に」
テトラ「ミルカさん、お願いがあります。 できるだけ、具体的にお話していただけますか。 いきなり双対空間と言われてもちょっと……」
ミルカ「テトラにとっては《実数全体の集合》は具体的だろうか」
テトラ「え、あ、はい。大丈夫です。何でしたら、 実数全体の集合を定義域に持つ関数 $f$ でも大丈夫です」
ミルカ「なら大丈夫」
ミルカさんはそういって微笑んだ。機嫌がいい。 さっきはうっかり《黒いミルカさん》などと言って大失敗だったな、 と僕は思った。
ミルカ「まず最初に、 《実数全体の集合を定義域に持ち、 実数全体の集合を終域に持つ線型写像 $f$》を一つ考えよう」
テトラ「わかりました」
ミルカ「たとえば?」
テトラ「たとえば……はい、 写像といってもこの場合は関数を考えればいいわけですよね。ですから、 $$ f(v) = 3v $$ という関数ではいかがでしょう。この関数 $f$ は、 《実数全体の集合を定義域に持ち、 実数全体の集合を終域に持つ線型写像 $f$》といえます」
僕「そうだね」
ミルカ「では、 $f(v) = 3v + 1$ はどうだろうか」
僕「それは線型写像じゃないよね」
ミルカ「私はテトラに聞いているのだが」
テトラ「はい。 $3v + 1$ は線型写像じゃありません」
ミルカ「なぜ?」
テトラ「なぜかというと、 $0$ のときに $0$ になりませんから。 だって、 $f(v) = 3v + 1$ のとき、 $f(0) = 1$ です」
ミルカ「なぜ、それを線型写像じゃない理由とした?」
テトラ「あっ、はい。 $f$ が線型写像というのは、 あの白い《カード》の条件を満たすことですから!」
ミルカ「Go ahead」
テトラ「$a$ がどんな実数でもこの条件を満たすわけですから、 $f(av) = af(v)$ が $a = 0$ のときを考えると、 $f(0v) = 0f(v)$ を満たさなければいけません。つまり、 $$ f(0) = 0 $$ にならなくてはいけません。でも、 $f(v) = 3v + 1$ のとき、 $$ f(0) = 1 \neq 0 $$ です。ですから、 $f(v) = 3v + 1$ は線型写像とはいえませんっ!」
ミルカ「Perfect」
僕「一般化できるね」
テトラ「一般化といいますと?」
僕「うん。いまテトラちゃんが持ち出してきた線型写像 $f$ の例は、 $$ f(v) = 3v $$ だったけど、もっと一般化することができる。 《文字の導入による一般化》だよ。任意の実数 $r$ を持ってきて、 $$ f(v) = rv $$ という形にすれば、 $f$ は必ず線型写像になる」
テトラ「ははあ」
ミルカ「そして逆もいえる」
テトラ「逆といいますと?」
ミルカ「いま彼がいったのは、 $$ f(v) = rv \Longrightarrow \REMTEXT{$f$は線型写像} $$ だった。逆に、 $$ f(v) = rv \Longleftarrow \REMTEXT{$f$は線型写像} $$ もいえる。要するに、 $$ f(v) = rv \Longleftrightarrow \REMTEXT{$f$は線型写像} $$ ということ」
テトラ「え、ええと?」
僕「簡単に証明できるよ。まず $\Rightarrow$ の方。 $f(v) = rv$ という形をしているんだから、 白い《カード》の式を具体的に計算すればいい。和はこうだね。 $$ \begin{align*} f(v_1+v_2) &= r(v_1 + v_2) \\ &= rv_1 + rv_2 \\ &= f(v_1) + f(v_2) \\ \end{align*} $$ それから、定数倍はこれで証明できる。 $$ \begin{align*} f(av) &= r(av) \\ &= rav \\ &= arv \\ &= af(v) \\ \end{align*} $$ ね?」
テトラ「ははあ……では、同じように逆もできるんでしょうか」
僕「できると思うよ」
クイズ
$f$ を、定義域と終域が実数全体の集合である線型写像であるとする。 このとき、 $f$ は実数 $r$ を使って $$ f(v) = rv $$ と表せることを証明せよ。
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