この記事は『数学ガールの秘密ノート/行列が描くもの』として書籍化されています。
登場人物紹介
僕:数学が好きな高校生。
ユーリ:僕のいとこの中学生。僕のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。 論理的な話は好きだけれど飽きっぽい。
僕とユーリは行列の積の話を続けている。
$$ \begin{array}{ccc} \REMTEXT{《数の世界》} & & \REMTEXT{《行列の世界》} \\ 0 & \RELATED & O = \left(\begin{array}{cc} 0 & 0 \\ 0 & 0 \end{array} \right) \\ 1 & \RELATED & I = \left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 0 & 1 \end{array} \right) \\ a & \RELATED & A = \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right) \\ x & \RELATED & X = \left(\begin{array}{cc} w & x \\ y & z \end{array} \right) \\ ax = 1 \quad(a \neq 0) & \RELATED & AX = I \quad (ad - bc \neq 0) \\ x = a^{-1} & \RELATED & X = A^{-1} \\ aa^{-1} = 1 & \RELATED & AA^{-1} = I \\ \end{array} $$
僕「$aa^{-1} = 1$ になる $a^{-1}$ のことを《$a$ の逆数》っていうよね。 それと同じように、 $AA^{-1} = I$ になる $A^{-1}$ のことを《$A$ の逆行列》っていうんだ」
ユーリ「ぎゃくぎょうれつ……逆数みたいな行列」
僕「ちゃんといえば、 $AX = I$ になるような $X$ のことだね。このときの $X$ を《$A$ の逆行列》というんだよ。 そして、 $A^{-1}$ と書く」
ユーリ「ふんふん」
僕「$a$ の逆数が $a \neq 0$ のときだけ存在するのと同じように、 $A$ の逆行列は、 $ad - bc \neq 0$ のときだけ存在することになるね」
ユーリ「ねー、でも、そもそも $ad - bc$ って何?」
僕「うん、これは行列式だよ」
ユーリ「?」
僕「何か変な感じ?」
ユーリ「『何をいまさら』とゆー感じ。だって、ずっと行列の式を書いてきたじゃん」
僕「ああ、行列式は、行列が出てくる数式のことじゃない。 $ad - bc$ という式のことを行列式っていうんだよ。 $ad - bc$ は、《行列 $\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ の行列式》という名前なんだ」
行列式
行列 $A = \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ に対して、式 $$ ad - bc $$ のことを $A$ の行列式と呼ぶ。
ユーリ「ふーん……」
僕「$a,b,c,d$ が実数のとき $ad - bc$ は実数だから、 行列式は行列じゃなくて、ただの実数だよ」
ユーリ「それはわかる」
僕「だから、行列式という言葉を使うなら、 《$A = \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ の逆行列 $A^{-1}$ は、 $A$ の行列式 $ad - bc$ が $0$ に等しくないときだけ存在する》といえるね」
ユーリ「……えーと」
僕「納得いかない? だって、ほら、 $A$ の逆行列 $A^{-1}$ はこうだろ?」
$$ A^{-1} = \frac{1}{ad - bc} \left(\begin{array}{cc} d & -b \\ -c & a \end{array} \right) $$ユーリ「……」
僕「だから、 $ad - bc = 0$ だったら、逆行列は存在できない。ゼロ割りになるし」
ユーリ「なんか変だよ……あのね『$ad - bc = 0$ だったら、 $\dfrac{1}{ad - bc}$ はゼロ割りになる』はわかる」
僕「それで?」
ユーリ「だから、『$ad - bc = 0$ だったら、 $\dfrac{1}{ad - bc} \left(\begin{array}{cc} d & -b \\ -c & a \end{array} \right)$ という行列が存在しない』もわかる」
僕「うん」
ユーリ「それから、『$ad - bc \neq 0$ だったら、 $\dfrac{1}{ad - bc} \left(\begin{array}{cc} d & -b \\ -c & a \end{array} \right)$ が $A$ の逆行列』というのもわかる。 計算したから(第113回参照)」
僕「じゃあ、何がわからないの?」
ユーリ「えーとねー。『$ad - bc = 0$ だったら、 $A$ の逆行列が存在しない』かどーかがわかんない」
僕「なるほど! その通りだね。ユーリは賢いなあ。 確かに、ユーリのいう通りだ。 僕たちは $\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)\left(\begin{array}{cc} w & x \\ y & z \end{array} \right) = \left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 0 & 1 \end{array} \right)$ が成り立つような $\left(\begin{array}{cc} w & x \\ y & z \end{array} \right)$ ……つまり逆行列……を計算で求めようとしていた(第115回参照)。 そして、 $ad - bc \neq 0$ のとき、 $$ \left(\begin{array}{cc} w & x \\ y & z \end{array} \right) = \frac{1}{ad - bc} \left(\begin{array}{cc} d & -b \\ -c & a \end{array} \right) $$ という行列が求める逆行列だとわかった」
ユーリ「うんうん」
僕「でも、 $ad - bc = 0$ のときに逆行列が存在しないことは証明していないね。 $\dfrac{1}{ad - bc} \left(\begin{array}{cc} d & -b \\ -c & a \end{array} \right)$ は使えないけれど、 他の形をした行列が $A$ の逆行列になるかもしれない……」
ユーリ「そー! そーなの! そこが引っかかってたの!」
僕「ユーリのその《引っかかり》はどうやったら解消するだろう」
ユーリ「《ユーリの問題》を解く……」
ユーリの問題
実数 $a,b,c,d$ に対して、 $$ ad - bc = 0 $$ が成り立つとする。
このとき、行列 $A = \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ の逆行列は存在しないことを証明せよ。
ただし、 $A$ の逆行列とは、 $AX = I$ を満たす行列 $X$ のことである。
ユーリ「これは、どーすんのかな……たぶんだけど、 $ad - bc = 0$ を使うわけだよね」
僕「そうだね。 $ad - bc = 0$ は重要な条件だ」
ユーリ「$\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ で $ad - bc = 0$ というと、 $ad = bc$ ということだから、 うーん……つまり、 $ad$ と $bc$ が等しい」
僕「それはそう」
ユーリ「でも、 $ad$ と $bc$ が等しいのが、 逆行列とどう関係あるかわかんない」
僕「たとえば」
ユーリ「ちょっと待って! 別のやりかた考える。 ……えーと、 $\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ と $\left(\begin{array}{cc} w & x \\ y & z \end{array} \right)$ の積はこーだよね?」
$$ \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)\left(\begin{array}{cc} w & x \\ y & z \end{array} \right) = \left(\begin{array}{cc} aw+by & ax+bz \\ cw+dy & cx+dz \end{array} \right) $$僕「うん、これは正しい式だよ」
ユーリ「だから、えーと、わかった! もっかいこーゆー連立方程式を解いてみればいいんだ!」
$$ \left\{\begin{array}{llll} aw + by &= 1 && \cdots \REMTEXT{(1)} \\ ax + bz &= 0 && \cdots \REMTEXT{(2)} \\ cw + dy &= 0 && \cdots \REMTEXT{(3)} \\ cx + dz &= 1 && \cdots \REMTEXT{(4)} \\ ad - bc &= 0 && \cdots \REMTEXT{(5)} \\ \end{array}\right. $$僕「……」
ユーリ「そんでね、 $ad - bc = 0$ じゃん? だから、 $ad = bc$ になって……うーん」
僕「いま証明したいのは $ad - bc = 0$ のときに、こういう $w,x,y,z$ が《存在しない》ことをいわなきゃいけないからつらいよね」
ユーリ「うん……連立方程式が《解けない》って言わなきゃいけないんだ……」
僕「ぜんぜん違う方向から考えてみようか」
ユーリ「ぜんぜん違う方向?」
僕「うん。《$A$ の逆行列を求めよう》というのをちょっと忘れて、 《$A$ について詳しく調べよう》と考えてみる。 テトラちゃんだったら『行列 $A$ さんとお友達になる』と言いそうな方法だよ」
ユーリ「詳しく調べる……って?」
僕「たとえば、 $A^2$ がどうなるかを調べる。 $A^2$ というのは、 $AA$ という積のことだよ」
ユーリ「はあ……え、 $AA$ を計算するってこと?」
$$ \begin{align*} A^2 &= AA \\ &= \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right) \\ &= \left(\begin{array}{cc} aa+bc & ab+bd \\ ca+dc & cb+dd \end{array} \right) \\ &= \left(\begin{array}{cc} a^2+bc & ab+bd \\ ca+cd & bc+d^2 \end{array} \right) \\ \end{align*} $$ユーリ「へーい、できたよ」
僕「うん、さらに、 $ab + bd = (a+d)b$ と $ca + cd = (a+d)c$ と変形できるから、 つまり、こうなる」
$$ A^2 = \left(\begin{array}{cc} a^2+bc & (a+d)b \\ (a+d)c & bc+d^2 \end{array} \right) \qquad \cdots\REMTEXT{(★)} $$ユーリ「うん、それで?」
僕「$(a+d)$ が二箇所に出てきてるよね」
ユーリ「うん、右上の $(a+d)b$ と、左下の $(a+d)c$ のとこ?」
僕「そこだけ抜き出すと、こんな行列が見える」
$$ \left(\begin{array}{cc} 0 & (a+d)b \\ (a+d)c & 0 \end{array} \right) = (a+d)\left(\begin{array}{cc} 0 & b \\ c & 0 \end{array} \right) $$ユーリ「?」
僕「$\left(\begin{array}{cc} 0 & b \\ c & 0 \end{array} \right)$ というのは $\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ に似ている。つまり、 $A$ にとても似ている」
ユーリ「??」
僕「それを踏まえて、 $A^2 - (a+d)A$ という式を計算してみよう」
$$ \begin{align*} & A^2 - (a+d)A \\ &= \left(\begin{array}{cc} a^2+bc & (a+d)b \\ (a+d)c & bc+d^2 \end{array} \right) - (a+d)A && \REMTEXT{★から} \\ &= \left(\begin{array}{cc} a^2+bc & (a+d)b \\ (a+d)c & bc+d^2 \end{array} \right) - (a+d)\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right) && \REMTEXT{$(a+d)A$の$A$を成分で表す} \\ &= \left(\begin{array}{cc} a^2+bc & (a+d)b \\ (a+d)c & bc+d^2 \end{array} \right) - \left(\begin{array}{cc} (a+d)a & (a+d)b \\ (a+d)c & (a+d)d \end{array} \right) \\ &= \left(\begin{array}{cc} a^2+bc-(a+d)a & 0 \\ 0 & bc+d^2-(a+d)d \end{array} \right) && \REMTEXT{$(a+d)b$と$(a+d)c$は引き算で消える} \\ &= \left(\begin{array}{cc} a^2+bc-a^2-ad & 0 \\ 0 & bc+d^2-ad-d^2 \end{array} \right) && \REMTEXT{展開した} \\ &= \left(\begin{array}{cc} -ad+bc & 0 \\ 0 & -ad+bc \end{array} \right) && \REMTEXT{$a^2$と$d^2$は引き算で消える} \\ &= -(ad-bc)\left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 0 & 1 \end{array} \right) && \REMTEXT{$-ad+bc = -(ad-bc)$だから} \\ &= -(ad-bc)I && \REMTEXT{単位行列$I = \left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 0 & 1 \end{array} \right)$を使って書いた} \\ \end{align*} $$ユーリ「はあああっ?」
僕「要するに、この式が成り立つ」
$$ A^2 - (a+d)A = -(ad - bc)I $$ユーリ「……」
僕「移項してやると、これで《ケイリー・ハミルトンの定理》を証明したことになる」
《ケイリー・ハミルトンの定理》
常に、行列 $A = \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ に対して、 $$ A^2 = (a+d)A - (ad - bc)I $$ が成り立つ。
ユーリ「何この《謎の数式変形》の嵐!」
僕「おもしろいだろ?」
ユーリ「《おもしろいだろ》じゃなくて。華麗な式変形はいーんだけど、 ユーリの問題、解く話はどーなったの?」
ユーリの問題
実数 $a,b,c,d$ に対して、 $$ ad - bc = 0 $$ が成り立つとする。
このとき、行列 $A = \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ の逆行列は存在しないことを証明せよ。
ただし、 $A$ の逆行列とは、 $AX = I$ を満たす行列 $X$ のことである。
僕「$A^2$ を成分で計算して、 $A^2 = (a+d)A - (ad-bc)I$ という式が成り立つことがわかったよね。 ほら、行列式 $ad - bc$ がちゃんと出てきてる」
ユーリ「むー……確かに $ad - bc$ が出てきてるけど、 ぜんぜん《ユーリの問題》が解ける気がしない」
僕「そんなことはないよ。考えてごらん?」
ユーリ「うーん……」
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この記事は『数学ガールの秘密ノート/行列が描くもの』として書籍化されています。
書籍化にあたっては、加筆修正をたくさん行い、 練習問題や研究問題も追加しました。
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