この記事は『数学ガールの秘密ノート/式とグラフ』として書籍化されています。
僕は高校二年生。
放課後はいつも図書室で数学をやっている。
ひとりで計算するときもあるけれど、たいていは……
テトラ「先輩、先輩、先輩!」
僕「テトラちゃん、今日も元気だね」
テトラ「はいっ!」
僕「でも、ここは図書室だから、静かにしないとね」
テトラ「あ、そ、そうですね」
元気少女のテトラちゃんはいつもバタバタしている女子高生。
僕の一年後輩なので高校一年生になる。
ショートカットの髪、チャームポイントは大きな目。 その目は好奇心でいつもくるくる動いている。
僕たちは仲良しだ。放課後は毎日のように図書室でおしゃべりをする。
おしゃべりの内容は、もちろん数学。
今日も、僕たちの数学トークが始まる。
テトラ「さっそくですが、先輩に質問ですっ」
僕「はいはい」
テトラ「以前のことですけど、先輩は恒等式のお話をしてくださいましたよね」
僕「うん。恒等式は《どんな数についても常に成り立つ等式》だね。 たとえば、この等式は恒等式になる」
$$ (a + b)(a - b) = a^2 - b^2 \qquad \REMTEXT{和と差の積は$2$乗の差(恒等式)} $$テトラ「そうですそうです! それで、この恒等式は、参考書によっては $x$ と $y$ を使って書かれていたりします」
$$ (x + y)(x - y) = x^2 - y^2 \qquad \REMTEXT{和と差の積は$2$乗の差(恒等式)} $$僕「うん、そうだね。 方程式の場合は $x,y$ を未知数にすることが多いけれど、 この場合は $a,b$ を使っても、 $x,y$ を使ってもどちらでもいいよ。 厳密にいうなら《$a,b$ に関する恒等式》や《$x,y$ に関する恒等式》という必要はあるかな」
テトラ「はい、先輩も以前そう教えてくださいました。あれで、あたし、ほっとしたんです」
僕「ほっとした?」
テトラ「はい。あたしって、数学の勉強しているとき、そこで使っている文字がとても気になるんです。 $a,b,c$ や $x,y,z$ のように、いろんな文字が出てきますよね。 ときどき、ギリシア文字の $\alpha,\beta,\gamma$ まで出てきます。 あたしは『どうしてこの文字を使うのかな? 他の文字じゃだめなのかな?』って考え込んでしまうんです。 でも、そんなこと数学の授業中にゆっくり考えていられなくて……だから、 先輩に『どちらでもいいんだよ』っていっていただけて、ほんとに助かりました」
僕「それはよかった。 テトラちゃんは数式で使っている文字が気になるんだね。 それ自体はとてもいいことなんだよ」
テトラ「えっ?」
僕「もともと、数式はていねいに読まなくちゃいけない。 そこに使われている文字を注意深く読むというのは、正しい態度なんだよ。 数式を読むときは、さらっと流してはだめ。じっくり読むことが大切。 慣れてくれば、だんだん速く読めるようになるけどね」
テトラ「そうですか……そうですよね。 あたし、文字を気にしすぎるのかなあって思っていました。 あたしってとろいなあって」
僕「そんなことないよ。 先走って読むよりもずっといい。 文字が出てくるごとに《この文字は、何を表しているか》って、ひとつひとつ確かめるのは大事だよ」
テトラ「何を表しているか、ひとつひとつ確かめる……」
僕「そうそう。それから《同じ文字は、どこに出てくるか》も、しっかりチェックするといいよ」
テトラ「同じ文字といいますと?」
僕「うん、たとえばさっきの恒等式をもう一度見てみよう」
$$ (a + b)(a - b) = a^2 - b^2 $$テトラ「はい」
僕「ここには $a$ と $b$ という二つの文字が何回か出てくるよね。 数式では《同じ文字は同じものを表す》という約束がある。 だから、左辺の $(a+b)(a-b)$ に出てくる $a$ と、右辺の $a^2-b^2$ に出てくる $a$ は同じものを表していることになる。 同じものというか、ここでは同じ数だけど」
テトラ「えっと、すみません。話がよく見えないんですが、 $a$ はどこでも同じ数ってことですか」
僕「どこでもっていうか、この恒等式 $(a + b)(a - b) = a^2 - b^2$ の中では、ってことだよ。 $a$ はどれも同じ数。 $b$ はどれも同じ数。 $a$ と $b$ 同士は、同じ数かもしれないけれど、違う数かもしれない」
テトラ「はい。……いえ、先輩がおっしゃることはわかりますけれど……」
僕「あたりまえすぎる?」
テトラ「は、はい……すみません」
僕「いや、いいんだよ。実際あたりまえのことだしね。 でも、さっきの $(a + b)(a - b) = a^2 - b^2$ で $a$ や $b$ のところに具体的に数を入れてみると、 おもしろいことができるよ」
テトラ「おもしろいこと?」
僕「そうそう。たとえば、 $a = 100, b = 2$ にしてみようか。 $a$ に $100$ を代入して、 $b$ に $2$ を代入するってことだよ」
テトラ「はい……?」
僕「そうすると、こんな式が作れる」
$$ \begin{align*} (a + b)(a - b) &= a^2 - b^2 && \REMTEXT{《和と差の積は$2$乗の差》の恒等式} \\ (100 + b)(100 - b) &= 100^2 - b^2 && \REMTEXT{$a = 100$としてみた} \\ (100 + 2)(100 - 2) &= 100^2 - 2^2 && \REMTEXT{さらに、$b = 2$としてみた} \\ 102 \times 98 &= 100^2 - 2^2 && \REMTEXT{左辺を計算した} \\ 102 \times 98 &= 10000 - 4 && \REMTEXT{右辺を計算した} \\ \end{align*} $$テトラ「……はい。わかります。でもこれが?」
僕「僕たちはこれで、こんな式を得ることができたね」
$$ 102 \times 98 = 10000 - 4 $$テトラ「ごめんなさい、先輩。何をおっしゃりたいのかまだわかりません」
僕「うん。この式で、左辺の $102 \times 98$ を見ても、計算結果はすぐにはわからない。 $102 \times 98$ を暗算するのはちょっと難しいよね」
テトラ「はい、確かに。あたし、暗算は苦手です。 $102 \times 98$ は、ええと……」
僕「いやいや、いま計算しなくてもいいよ。そこでさっきの式、 $$ 102 \times 98 = 10000 - 4 $$ の右辺を見よう。右辺は $10000 - 4$ だ。これなら暗算できる。繰り下がりに注意」
テトラ「あ、そうですね! ええと、 $10000 - 4$ は $9996$ ですね。 $4$ を足したら $10000$ になる数ですから」
僕「そうそう。つまりね、 暗算するには難しい $102 \times 98$ という式を、 暗算ができる $10000 - 4$ という式に変換したことになるんだよ」
テトラ「ははあ……」
僕「もちろん、そのためには、 $102$ が $100+2$ に等しくて、 $98$ が $100-2$ に等しいことを見抜かなくちゃいけないけどね。 言いたかったのは、 $(a+b)(a-b) = a^2 - b^2$ という恒等式に具体的な数を入れてみると、おもしろい式が作れるということ。 こういうの、自分でいろいろやってみると楽しくなる。 数学の読み物に、ときどき《おもしろい暗算法》が紹介されていることがあるけれど、 それは恒等式を使って組み立てられていることが多いよ。 読み物を読むのもいいけれど、自分でやってみるほうがずっと楽しい」
ミルカ「何が楽しいって?」
僕「うわっ!」
テトラ「あちゃちゃ!」
僕「びっくりした……ミルカさんって、足音がしないね」
ミルカ「そんなことより、何が楽しいって?」
ミルカさんは僕のクラスメート、高校二年生だ。
長い黒髪、メタルフレームの眼鏡。
数学がとても得意な才媛。ミルカさんには誰もかなわない。
立ち姿が綺麗で、僕はいつもミルカさんに見とれてしまう。
ミルカ「ふうん……《和と差の積は $2$ 乗の差》は、《長方形を正方形に変換する》ということだな」
テトラ「どういうことでしょうか?」
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(2012年11月2日)
この記事は『数学ガールの秘密ノート/式とグラフ』として書籍化されています。
書籍化にあたっては、加筆修正をたくさん行い、 練習問題や研究問題も追加しました。
どの巻からでも読み始められますので、 ぜひどうぞ!